随筆かも知れない

真宗の再興

平成24年8月20日

ご近所の真宗大谷派のお寺の掲示板に「生活の中に仏法がある」という言葉がありました。私もどこかでどなたからかそういうお話をお聞きして、そうだと思っていたのですが、そうではないと思い出したのが今から十四年前のことでした。

はっきりと十四年前とわかるのは「阿弥陀さまのおはたらきであるお念仏をいただいて、お念仏もうさせていただくなかで安心して生活させていただくのです。生活の中でお念仏もうすところにある安心は、かりそめの安心です。壊れます。本当の安心ではありません。」というようなことを書いておいたからです。

真宗で仏法といえばお念仏ということでしょうから、「生活の中にお念仏がある」という言い方をふまえれば、私は今もやはりそうではなくて「お念仏のなかに生活がある」んだと思えます。阿弥陀さまの本願念仏のなかで生活をさせていただくのであると。

お念仏と生活とが別にあるのでないということ(だけ)を言うのであれば「生活の中にお念仏がある」でもいいのでしょうが、どうもその言い方には私はなじめません。清沢満之師の言葉に「天命に安んじて人事を尽くす」というのがあるようですが、それが意味するところを考えれば、やはり「お念仏のなかに生活がある」んだと思えます。

二種深信、あるいはご開山の三願転入ということに関連するような気もするのですが、いまはまだまとまりません。しかし、「生活の中にお念仏がある」という言い方には、まず「私」があるように思えて、それはいわば第二十願中のことであるような気がします。

まだまとまらないことを言うついでに言えば、今またお念仏の教えに江戸時代が来ているようにも思えます。歎異抄に新たな発見があったこともあり、明治にはようやく多くの方々のなかに浄土の真宗が再興されたのでしたが、たとえば先の蓮如上人のご遠忌の際に言われた「真宗の再興」という言葉は、その殆どが「教団」「教化」ということに限られていて、この私においての真宗の再興ということは殆ど言われなかったように思います。

真宗の再興ということは、蓮如上人にあっても、まずはご自身のなかでのことであったのであり、私ども「門徒」と称している者にとっては、お聞きしてもお聞きしても雲霧に覆われるのが常なのですから、繰り返し繰り返し、間違いのないご開山の教えをいただくということ以外にないのではないでしょうか。


値遇うこと難いなかで出合わせていただいたお念仏というもの、その教えというものは、あらゆる衆生がそのなかで生活させていただいているという事実をお示し下さっているのです。

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