随筆かも知れない

樹心佛地

平成25年1月31日

窓の外に葉を落とした桜の木が見えます。桜と言えば満開に花を咲かせている姿を思い浮かべてしまうのですが、枯れたかのように見える桜の木もまた桜であって、さらには眼に見える部分だけでなく、土に埋もれた根もやはり桜であるわけです。

桜に限らず木というものは、木があって根があるのではなく、根があって木がある。根もあってはじめて木である。土の下になって見えない根があって、全体として眼に見える木であるわけです。

何年か前に若いご住職が「樹心」ということをお話なされ、そこに「佛地」がなかったことがありました。それはまさに眼に見える部分だけを見て、眼に見えない土に埋もれた根を見ないようなものであると言えるのではないかと思います。

・・・山で枯れ竹を集めたりしていますと、妙に軽い竹があります。本当のところは解らないのですが、成熟してから雪や風に倒されて枯れたのではなく、まだ若いうちに倒れて枯れた竹ではなかろうかと思います。眼に見える姿は同じようであっても、長年に渡って根から養分をいただいた竹と伸びて2・3の竹ではやはり違いがあるということではないかと思うわけです。

「慶ばしきかな、心を弘誓の佛地に樹て、念を難思の法海に流す」(大谷派聖典P400)とあるところから、樹心ということは必ず樹心佛地であって、決して樹心だけでは意味を成しません。


意味を成さないことに意味を持たせようとすると、やはりそこには「我が思い、計らい」というものがまじります。自力ということはどこまでも私につきまといますが、しかしながら他力のおはたらきはそういう私の根っこを佛地において下さっています。

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