随筆かも知れない

断不断

平成25年4月29日

結論めいたことを先に言えば、煩悩を断ずるとか、煩悩を断ぜずしてだとか、こういうこともまた煩悩がつくりだしているのだと、今回はそういうふうなことが言いたいわけです。

仏も煩悩をおこすと仰る方があり、その意味がわからないでいたのですが、法蔵菩薩さまという方は衆生と同体化してくださるということをお聞きしてから少しわかったような気がしてきています。

仏説無量寿経の第四願を検索して調べますといろいろな解説が見つかりまして、一応はというか、その時にはなるほどといただくのですけれど、やはり私の腹の底にまですんなりと落ちていくものは見当たらないようです。それが私の愚痴の愚であり痴であるのでしょう。

そもそもあの四十八の願というもの、あれは確かに成就されてあるのですけれど、あれは因位法蔵菩薩さまの願であるわけです。それはまさに因位であるばかりではなく、果上の因としての因位でもあって、ですからそこに衆生と同体化して、衆生の煩悩を我がこととしてくださっている法蔵菩薩さまの願心がある。

好醜ということをつくり、つくった好醜にとらわれる私が現に今ここにいます。そのこと、好醜は私がつくるということに気づけたとして、その気づけた私というものは、善悪にとらわれている私であるのでしょう。何が善で何が悪かがわかっていると思っている私に、何が善で何が悪かがわかることがあるのでしょうか。

ただ念仏ということは、それはひとつには煩悩を断ずるとか断ぜずしてだとか、そういうことを離れるということであるのだと思います。


蛇足ながら敢えて言えば、煩悩が私となっているこの私が現にいて、如来はこの私一人をめあてに、私と同体となってくださって今また願をおこし、いまその願を成就せんとしておはたらき下さっている。そのおはたらきがただ念仏である。

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