随筆かも知れない

智慧と慈悲

平成26年2月18日

仏像というものが作られるようになったのには、それなりの理由があるのでしょう。もともとお釈迦さまは、そのような「偶像」を作ることは許されなかったと聞いています。

時代が下ってからのことなのでしょうか、釈迦三尊・阿弥陀三尊という安置の形式ができたのは。それもまた理由のあることなのでしょうが、ともに智慧と慈悲を表す脇侍の菩薩がまします。

candle

上の画像はネットで拾ったもので、外国の方の作品なのですが、何かしら象徴的だと思います。灯明が智慧であり、それを掌にのせて届けて下さる手が慈悲であり、総じて如来のおはたらきを表すように思えたのですが、いかがでしょう。

智慧とは何かといえば、それは南無阿弥陀仏の南無であり、慈悲とは何かと言えば、それは南無阿弥陀仏の阿弥陀仏である。総じて南無阿弥陀仏という円いお念仏である。これは、我々の側から言えばということになるのでしょうけれど。

智慧が知恵で過ぎなくなると、やがては学問になり、慈悲が衆生縁に過ぎなくなると、やがては慈善になります。あるいは、他力という言葉の間違った意味が辞書に掲載されている今、すでに知恵と慈善が大手を振って歩いているのでしょうか。

そうだとして、けれども、智慧は智慧として仏のところにとどまるのでなく、仏の掌にのせられて無始以来この私にとどけられて、今この私と一体となっていて下さるのです。


そこが如来であり、だから南無阿弥陀如来(=あり得ない言い方)ではなく、南無阿弥陀仏と私たちはお念仏もうさせていただけるのです。

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