随筆かも知れない

仏事、俗事

平成14年4月5日

たとえば仏事と俗事とが分かれるのは、私たちが「俗」に属しているからでしょう。いわゆる俗世間に生きる私たちが「真の仏事」と言うとき、それは高邁なる理想をいうのではなく、自身の無智を無智と知らないでいることを表していることになりはしないのでしょうか。

仏事・俗事と区別することに異議を唱える人は、「事」の側に仏事と俗事とがあるとして異議を唱えるのではないのでしょうから、事を仏事・俗事と区別する「人」の側に異議を唱えるのであって、異議を唱えるそのときは自身を棚の上にあげることになって、やはりお念仏の智慧にそむいているというべきではないのでしょうか。

事が起こるところを私たちは世間と言い習わしているのですから、世の中に事が起こらないことはありません。事に対して私たちが全く無関係でいられるというようなこともありえません。行動を起こす人がおこさない人を批判し、行動を起こさない人がおこす人を嘲笑するということはありがちなことですが、行動を起こすも起こさないも縁あってのことであるわけです。

俗の側から俗事を批判し仏事を嘲笑する。行動を起こす人を嘲笑し起こさない人を批判する。あるいは、何かしら尊い境地から仏事を批判し俗事を嘲笑する。行動を起こさない人を批判し起こす人を嘲笑する。そんなふうなことでなくても、批判したり嘲笑したりするのもよいでしょう。批判することは批判されることであり、嘲笑することは嘲笑されることであるわけです。

すべてがご縁によってあるがままにあるがままであると知るとき、真実の有り様を見ることができるとき、お念仏にであわせていただいているとき、こんなふうなことも自ずから明らかになって来ているのではないでしょうか。区別は否定であり、行動と無行動とは一意であり、人は受動するものであり、仏は肯定するものである。


今回が6年目に入って一回目の「随筆かも知れない」になりました。相も変わらず自分の確認のためにわけの分からないことを書いています。わけの分かりやすいきれい事(?)より、わけが分からなくても本当に思っていることを書いておく方がよいかという程度で公開していることをご勘弁願い上げます。

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163 本願名号
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155 極楽
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136 意味の後付け
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134 (無題)
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131 「私」を見よ
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129 我々の事実
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127 満足
126 (無題)
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123 糖衣錠はのみやすい
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