随筆かも知れない

時代おくれの芸術の秋

実は思い出話の秋?

10月11日

自慢ではありませんが、芸術関係は全く才能がありません。ひどい音痴で、人前で一人で歌を歌ったことはただの一度です。忘れもしません、小学六年の修学旅行の帰りのことです。こういったバス旅行の帰り道ではいつも寝たふりをしていたのですが、私が一度も歌ったことがないのを知っている意地の悪い人がいて、無理矢理にマイクを持たされてしまいました。私は意を決して歌いました。一節太郎(字が違う?ひょっとしたら他の人?)さんの「浪曲子守歌」です。担任の先生が「その歌はやめなさい」と言ったのは、今思えばあるいは私に親切で言ってくれたのかも知れません。まわりは水を打ったように静まり返りました。私の神経は大きなバスのタイヤが小石をひろうのまで分かるほど尖っていました。他の人が歌ったあとには必ず何かコメントしていたガイドさんが慌てて「あと半時間ほどでドライブインで休憩です」と言ったのを覚えています。中学校でも合唱などはいわゆる「口ぱく」でとうしました。もちろん楽器の演奏も駄目でした。合奏ではカスタネットとトライアングルしか持ったことがありません。

美術も駄目なのですが音楽よりはごまかしがききます。それで高校では「芸術」の授業に美術を選択しました。校舎の外での写生のときなどは、土を水で溶いて画用紙を茶色く塗り、草の汁で緑色を塗り、いろいろな花の汁でいろいろな色をつけました。淡くてかすかな色しかつきませんが、ほんの申し訳程度に画用紙のなかに絵と言えば絵に違いはないものを描いて、それで出来上がりです。半時間ほどそんなことをして、あとは寝ていました。絵の具を使わなかったのは中学から使っていた絵の具のチューブの中身がもうほとんどなく、残っているのは全部固まっていて水で溶けないからでした。新しく絵の具を買う気にはなりませんでした、どうせ絵らしい絵は描けないのが分かっていましたから。美術の先生は、「君は変わった描き方をするね」と言うだけでした。あとで知ったのですが、この先生は専門が洋画ではなく日本画の、剣道の達人でした。

芸術の秋ということで、私の好きなGeorges de La Tourという17世紀初頭のフランス人画家の絵を題材にしたことを書こうと思っていたのですが、ついつい思い出話になりました。

やはり、書こうと思ったことを少しだけ、だいぶん端折って書いておきます。

西洋絵画では画面に余白を残すということが近代までなかったようです。白い部分はあっても余白ではないのです。その当時の西洋では余白は「神」の不在をあらわすに違いありません。ですから日本の屏風や襖に描かれた絵などは、いわば未完成の作品ということになってしまうのでしょう。

La Tourは「闇」を描きました。それは西洋が中世キリスト教の、「魔女裁判」が日常的に行われていた時代のキリスト教の「神」から解放される一歩手前の、ようやくにしてたどり着いた「闇」です。そして、それだけではなく人間というものを真摯に見つめた「闇」です。その延長上には余白があるに違いないことを思わせる闇です。髑髏はその当時の西洋絵画のなかによく見られるモチーフで、「真理」を象徴するといわれます。La Tourの絵(「炎の前のマドレーヌ」)の膝にある髑髏に手を置いた女性が見つめる「闇」は、時代に関係のない人間存在の真理であるのでしょう。あくまでも真摯に人間を見つめる眼は闇を見るようです。

闇を見つめる眼を持つ画家が闇を描かなくったところに絵画における近代が訪れました。余白は「神」からの精神の独立として残され、あふれる光は理想として、あるいは新しい可能性として描かれました。しかし、おそらくすべてが闇の裏返しであり、根底にある闇を想起させないものはないと思います。これは現代の絵画にも当てはまるはずのことです。

今日の日本の画家(洋画家だけではない)達のほとんどが余白を残さないようです。外国の絵画の現状は詳しく知りませんので何とも言えませんが、日本では余白を残した絵はないようです。それは一見すると精神世界が満たされているように受け取れますが、実は逆です。日本の風土を考えると、余白がない絵画ばかりが描かれる時代には決して闇が描かれることはないでしょう。それは闇を見られる眼を持つ画家がいないということであり、あるいは時代がその種の画家の仕事を必要としないということなのでしょう。絵の世界だけではないのかも知れません。画家達だけではなく、私達は闇を見る眼を持てなくなってしまっていると言えるのかも知れません。

自己を凝視し人間の闇を見る眼は少なくとも一筋の光ではあるのですが、もはや一筋の光もなく、あるいは一筋の光をも必要としない時代が現在しているのかも知れません。我々は、中世キリスト教的神の呪縛ではあり得ませんが、いったいどういった「神」に縛られているのでしょうか。


La Tourが中世キリスト教的神の呪縛から解放されていたならと仮定するのは彼が彼の絵を描かなかったらということになってしまいます。ですから別の仮定をするとして、東洋思想が彼に伝わっていたなら、彼は闇を描くのでなく白地を残したかも知れません。私は彼の画集を持っていますので「メトロポリタン」や「ルーブル」美術館へは行ってませんが、興味のある方はどうぞ

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