随筆かも知れない

信楽受持甚以難

10月30日

私たちは親鸞聖人のお陰をもってご本願をいただき、お念仏をいただかせてもらいます。学問するのであれば、例えば釈尊の「縁起」、龍樹菩薩の「空」などは非常に大切なことで、どのように違うのか、あるいは違わないのかというようなことも研究しなければならないでしょう。

「縁起」、「空」などを研究し、さらに親鸞聖人がそれらを如何にいただかれたのかということも知らなければならないでしょうから、なおさら大変です。そういった研究は例えば「親鸞聖人の教えは間違っている、少なくとも不完全である」というような結論に行き着くことになるかも知れないのですから、本当に大変なことです。

敬虔なる「信」だけが教えをまもるものではなく、むしろ真摯なる「疑」があればこそ教えはまもられてきたのでしょう。例えば龍樹菩薩の「空」は釈尊の教えから離れた「仏教」を否定するところにうまれたとお聞きしました。(蛇足ですが、ですから「空」もまた「縁起」しているわけです。)

「疑」があるのであれば、それは命をかけた「疑」とならなければなりません。「信」に命がかかっているのですから「疑」はなおさら命がけでなければならないのです。「疑」にとどまる「疑」では命は生かされません。「疑」は「疑」にとどまらず「信」を超える「信」とならなければなりません。今に伝わるお念仏の教えにいったいどれだけの「信」と「疑」の命がかかってきたことでしょう。

親鸞聖人のお陰をもっていまお念仏をいただく私たちは、例えば「教行信証」をまるごといただくだけでなく、お念仏の教えの歴史を一念にいただくということでもあります。およそ人間が起こしうるあらゆる疑念というものをすでに超えた「本願念仏」をいただかせてもらうのであり、今更に何を疑い、何を智として欲しなければならないのでしょう。

知識欲というのでしょうか、それもまたいわゆる煩悩なのでしょう。おもしろいことです。およそ人間が起こしうるすべての煩悩もまたお念仏のところにすでに解決がついているのに、煩悩というものは往々にして時代によって形を変えて起こり、なくなりはしません。

「末寺」では報恩講が盛りです。時代を超えた教えに出逢わせていただきながら時代に動く煩悩の身の私です。時々刻々が報恩に違いないのにご恩を忘れる私です。ことさらに報恩講を持たなければならない私であり、報恩講によってまたご恩に生かされる私です。 談義するのでなくいただくばかりであるのがお念仏です。


談義すべきは言うまでもなく「私」であるのです。「我が念仏」と思うところにお念仏を談義する「私」がいて、その「私」こそを談義すべき(されるべき)だということに気がつかなくなっているのです。

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