随筆かも知れない

ある確認 第3回

平成12年9月6日

ご縁のままにしか生きられないということは、あらゆる存在が他力に生かされている自然法爾のこの世界の実相を示す言葉です。

例えば「法の世界は平和で常住であり、生も死もなく常に現在する。」という説明があるのは法の世界に住しない者の世界です。菩提、涅槃、正覚という類の言葉も法の世界に住しない者の世界にだけあるものです。そもそも法の世界に言葉というものはないのでしょう。

私というものも法の世界の外にあるのではありません。ご縁のままに他力に生かされる法の世界のなかにいます。いただいたご縁によって今現在の私であり得ているのが私です。その私がご縁ということを忘れ、我執・我所執によってある「私」と「私の対象とする世界」を仮設しています。虚仮不実なる「私と私の世界」です。

上に例示した説明、言葉は虚仮不実なる「私と私の世界」のものです。法の世界の私と仮設の私(煩悩である有身見の私)と二人の私が別にあるのでなく、私のものとしている命(生があり死がある命)とご縁としていただいたいのちと二つが別なのでないということにおいて煩悩即菩提、生死即涅槃という関係があるのでしょうが、こういうことを明らかに知らせていただいても、やはり虚仮不実なる「私と私の世界」が私の住処であることに変わりはありません。

阿弥陀さまの本願念仏である南無阿弥陀仏は虚仮不実なる「私と私の世界」のものではありません。そもそも言葉であるとすれば方便としてのみ言葉であるのでしょう。この南無阿弥陀仏において発願回向もあり摂取不捨もある。煩悩即菩提、生死即涅槃が即得往生、住不退転となるのは南無阿弥陀仏においてであるということが言えるでしょう。

ただ煩悩即菩提、生死即涅槃ということの知見ではやはり私は生死輪転の家に住する。煩悩即菩提はまた菩提即煩悩でもあり、生死即涅槃はまた涅槃即生死です。帰っていくのが法の世界であるか「私」の世界であるかの違いが「住する」ということにあるように思われます。


自分が何を確認したかったのかということも今となってはおぼつかないのですが、「即得往生、住不退転」が命終わって後のことなのか、そうではなく現生においてなのかが問題になるのは、学問しているわけではないのですから、私が「生死輪転の家」に住していることのあかしであるということなのでしょう。ご縁のままに、やはり生死に身を置きながらも、帰るべきところがどこになるかということを南無阿弥陀仏にお任せしたいと思います。

最新の掲載へ  101回からの掲載へ

以前の掲載一覧
100 自燈明
99 (無題)
98 (無題)
97 不信にあらずや
96 大地
95 教訓
94 名宛人不明
93 具体
92 益・無益
91 大自覚
90 出来た人
89 お講の風景
88 いわずもがな
87 放言-3
86 放言-2
85 放言
84 宿業
83 不可思議
82 不思議
81 自我と我執
80 慚愧
79 報謝
78 感想文
77 余計なお世話
76 ある確認-3
75 ある確認-2
74 ある確認-1
73 (無題)
72 今にある歴史
71 とわれるもの(2)
70 問われるもの
69 証道の歴史
68 そのうえの念仏
67 中中おろかなり
66 大悲無蓋
65 無生の生、往生
64 「おめでとう」
63 称名
62 救い
61 いのちである言葉
60 信楽受持甚以難
59 家族の真宗
58 詮ずるに愚痴
57 無碍光如来
56 光明無量
55 非行非善
54 仏法聞き難し
53 (無題)
52 さるべき縁
51 いそぎ仏になりて
50 遺伝
49 無生
48 構造
47 迷い
46 (転載)
45 奇妙な反省文
44 現在
43 念仏、お念仏
42 (無題)
41 お聞かせ
40 謝すべし
39 相続
38 自縄
37 我が身
36 立所
35 心の向かうところ
34 不可説
33 個性
32 癒し
31 (無題)
30 ただ称える
29 輝く
28 有量
27 光と闇
26 深い闇
25 ただ一つ
24 離れる
23 意味の奥底
22 梅の花が
21 念ずる方向
20 穴の中
19 罰があたった
18 掌を合わす
17 悪人たる所以
16 極点に立つべし
15 大海
14 奇妙な酔っぱらい
13 ばあちゃんの避難訓練
12 無智
11 芸術の秋
10 仮想現実
日本教
ベクトルでもない
転んだら立ち上がれば...
京都の五山の送り火は
今回は関西弁で


「じねん」と読むらしいです
HEAVYってどういうこと?

かも知れない検索
(別窓で開きます)