随筆かも知れない

余計なお世話

平成12年9月30日

宗教と哲学との区別には様々な説明があるようです。なかには親鸞聖人の教えを「哲学」とされる方も居られるようで、「国語辞典」的な解釈ではむしろ哲学としての認識の方がしっかりとしているように思われますので、それはそれで結構なことかと思います。

単に「他力」を信じる信心ではなく、他力より賜りたる信心ということは「宗教」という言葉の既成の概念規定に収まるものではないように思えます。もちろん「哲学」ではないはずなのですが、私を含め、ともすると哲学に似たものにとどまることも多いようで慚愧にたえず、まことに残念です。もっとも、宗教に似たものであるよりはむしろ潔いかも知れません。

様々な方が様々な場で様々に仰有っていることのなかで、意味がつながらないことが多いように思われ、どうにも気になります。どうでもよいことなのかも知れませし、そういうことに拘ることはよくないのかも知れないと思う反面、そういうところから仏教が仏教でなくなるのかも知れないとも思います。

たとえば「諸法無我」というときの「我」は、いわゆるアートマンです(よね?)。そういうことができるとして、縁というものを完全に取り払ってしまっても残るもの、自性する主体がないということが「諸法無我」の「無我」ということです。ですから「諸法無我」の「我」は「自我」ではないわけです。

またたとえば「諸法無我」とは別に「無我」というときの「我」はいわゆる我執(アハンカーラ)・我所執(ママカーラ)です(よね?)。「"私が"とする」執着と「"私のもの"とする」執着です。ですから「諸法無我」とは別に「無我」と単独に使われるときの「無我」の「我」も「自我」ではないわけです。

そもそも「自我」いうのは哲学や心理学という学問の用語であったと思うのですが、いったいいつから宗教と哲学が合体(?)して「自我」がないこと(!)が「無我」になったりしたのでしょう。「自我」と対をなす言葉は「無我」ではなく「非我」または「他我」のはずです。


余計なお世話の最後に、釈尊が穏やかに「ない」とされたにもかかわらず後の「仏教」が(別の形で)「ある」とするようになった「我(アートマン)」と「我執・我所執」も、もともとは別のものです(よね?)。

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