随筆かも知れない

放言−その3−

平成13年5月10日

一念帰命はいのちのご縁のときにある。信に死するとき、始まりもなく終わりもないいのちのご縁を賜る。つまり、信に死するときに実の生が始まっている。これは、「法に就いて言えば」という一言が要るのだろう。

信に死するとは、すなわち願に生きるということ。信に死するということと、願に生きるということ、実の生に生かされるということ。そこには「即」の関係があり、だから、一念帰命・平生業成・現生不退はそれぞれ別のことを言うのでなく、ただ一つの念仏往生を説いた言葉である。

本願他力に生かされながらの「私」というものが、不思議にもお念仏に値遇し、私の言葉でないお念仏を申させていただく。現生不退ということがすでに道理として明らかであれば「法に就いて言えば」などとことわる必要はないのだろう。

「義なきを義とす」ということを「なお義のあるべき」ことにしているところに、現生不退は道理として明らかにならず、念仏往生が依然として未来往生である。信に死しながら、願に生きられない。すると、いのちのご縁のときの一念帰命が今度は論理の一念帰命になり、浄土真宗が学問になる頃には、ついには念仏が道具になっている。

自業自得の道理で、我々はそれぞれが宿縁のもよおしにより宿業の自覚のところにお念仏に値遇した。そのうえで、我々が問題とすべきはただ一つであるはずである。

浄土真宗に帰すれども  真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて  清浄の心もさらになし


いま、ことさらにここにこんなことを書くことは、「それをお見とおしの五劫思惟だと言うこと」が、私の言い逃れの道具でしかなくなっていると、いまさら思い知らされるからです。
本能であるはずなのです、私に真実の心はないということを「言葉で」ではなく知る、信知するということは。いまやみんなが立派な理性の人で、理性の人というものは、本能を失いつつある人のことなのかな?

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