随筆かも知れない

放言−いわずもがな−

平成13年5月30日

信に死し願に生きる念仏の衆生は、すなわち法蔵菩薩である。法蔵菩薩は果上阿弥陀如来の因位の時の名であるのだから、これが道理というものであろう。ただ、信に死することと願に生きることに「即」の関係がない時、「法蔵菩薩であるべきである」と、べきことになる。

称名念仏の教えから称名念仏がなくなって、だから、残ったものは何かと言えば教えが残った。機に就いていえば、願によって信が回向せられて行体となるものであるから、教えがあって称名念仏がないということは、いまだ本願は成就しないのである。法蔵菩薩が固有の名詞として法蔵菩薩であるのだから、一々の衆生が法蔵菩薩とはなり得ない。これもまた道理であろう、そもそもそこに衆生たる自覚もないのである。

こんなふうなことを聞いて、今日みんなが学者になってしまっている、善知識にであっておらない証拠であるという人もある。立派な学者もたくさんいるが、それ以上に立派な評論家がたくさんいる。我が身が問われることにならないのだから、それを評論家と言うのであろう。評論家であるよりはむしろ学者である方がよいのかも知れない。

有漏の身が教えをいただいても有漏の身である。むしろ教えをいただく以前よりも堅固な有漏の身となるのであろう。念仏いただいて称名念仏させていただけば、有漏の身が有漏の身でありながら、いわば全漏の身にもしていただける。名が号となって名号として表れてくださった仏が南無阿弥陀仏である。何かしらの「私」を保つ有漏の身の私が、あらゆる執着を離れるいわば全漏の身にならせていただけるのは、この仏のみ名を称える即の時である。その即の時、願に生かされ、願に生きる法蔵菩薩であるのである。念仏が現生不退である道理である。

無論、智慧の眼はすべての衆生がお念仏申しているとご覧になるのである。称名念仏の教えから称名念仏がなくなったというのは、お念仏申せない私が思うことである。教えと言えば念仏(称名念仏)であったものが、もともとひとつの「念仏の教え」であったものが「念仏」と「教え」になっていると思うのは、お念仏申せない私だけであろう。


ご開山聖人は仏教を念仏と確認された。それが称名念仏の教え、本願念仏の教えであろう。ならば、いただくべきは念仏であって、教えをいただいてそれを学問しようとするのは疑謗に等しいことともなろう。学問はすべきことであるが、学問すべきは自己を、私をである。

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