随筆かも知れない

(無題)

平成14年2月1日

智慧の眼によればすべてが一味であるのだろう。そこにのみ平等ということはあるものであって、我々が軽々しく言う「平等」は我々のいびつな論理が作り上げる理念に違いない。

あらゆる区別、理論、便宜は機にあるものであって、法の側にはたとえば法の深信も機の深信もない。往相回向・還相回向ということも機の側にあり、能信・所信ということがあるのも機の側である。無生ということも機の側の言うことであり、だから我々にとってはその法爾自然のありさまこそが理屈であるかのように思える。

火宅無常の世界の中ですでに煩悩が成就して共有幻想(社会、または二次的現実)があり、またその中に煩悩成就の私がいる。だから私が自分の殻を破ったと思ってもやはり殻の中にいるのは自明のことであって、結果的には思いあがりであるそういう思いがまた私の殻となるのも道理である。

たとえば、私を見るのが煎じ詰めれば私であり、私を問うのが妄執を離れたという妄執を持つ私であると、結果的に思い上がりを増長させるだけであることに私は気が付いているだろうか。またたとえば、資産活用についてご開山に聞くのが滑稽であるのと同程度に世間道の人に仏道を聞くのが滑稽であることに我々は気が付いているだろうか。

機はお念仏によってはじめて機であるのであって、称名によってはじめて法に直参する。南無阿弥陀仏によって機と法は一体であって、機法が一体である南無阿弥陀仏が智慧である。我々がもはや南無阿弥陀仏すら滅したと思うことがあっても、南無阿弥陀仏は我々から片時も離れずにいて下さるのであろう。

平等とは南無阿弥陀仏の智慧のご回向のことであり、その智慧に依ればこそ我々は一味に救われるべき衆生であり、帰するのがまた南無阿弥陀仏という一所である。


お念仏の教えを聞き開かれた先人の中には、聞き開いたが故の苦悩というものを持たれた人も多かったはずである。もっとも、それを苦悩というのは我々であり、ご本人にしてみれば呼吸とでも言うべきものに過ぎなかったのかも知れない。

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