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<title>時代おくれ</title>
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	<title>聞思して遅慮することなかれ</title>
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	<summary>竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、...</summary>
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	<![CDATA[<div style="margin-left:20px;margin-right:20px;text-align:fixed;line-height:1.5em;">竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。</div>]]>
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	<title>つながり</title>
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	<![CDATA[「つながりを生きる」という言葉は、どこかで眼にした覚えがある。そこにこめられた意味は、残念ながら詳しくは知らない。<br /><br />また、「私たちは多くのつながりの中で生きている。親子の関係はもちろん、学校や地域における人間関係など、はかりしれないつながりの中で支えられながら生きている」と、ある本に書かれている。<br /><br />残念ながら推測に過ぎないけれど、「つながりを生きる」という言葉の意味や、「私たちは多くのつながりの中で生きている。」ということは、お釈迦さまの『縁起の理法』をわかりやすいように、あるいは今風に言い換えたものと思われる。<br /><br />仏道（念仏道）と世間道とをはっきりと分かつのは我々の習い性で、もともとは、あるいは仏道（念仏道）からすれば不一不二なのだろうけれど、お釈迦さまの『縁起の理法』ということが世間道からの理解ばかりになっていて、それは、いわば仏教の根本の世俗化とは言えないだろうか。<br /><br />世間道からの理解というのは、たとえば縁起によらない「私」、ありえない「私」を「私」と仮定して、その「私（たち）」がつながりの中で生きていると言うようなことで、そうとしか聞けない、あるいは読めない言葉が大勢を占めているように思える。<br /><br />「ご縁をつくる」ということを言う人がいて、ご縁というのは人間がつくれるものでないと「かも知れない」に書いたのがいつだったかは忘れたけれど、因果転倒の世間道で人間が作るのは虚仮ばかりであって、ご縁はすべて如来から賜る。<br /><br />もっとも、すでに人間がつくるものも「ご縁」というのが一般的になっているのかも知れない。]]>
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	<title>山を歩く</title>
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	<summary>桜の花が例年より２週間ほど遅かったので筍も遅いかと思っていたら、１週間ほど早かった。自分が料理したりもらっていただいたりするだけでは追いつかず、このところ連日１０本ほども切り倒している。地の面が人間様の通り道になっているとか、倒木や倒れた枯れ竹に覆われ...</summary>
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	<![CDATA[桜の花が例年より２週間ほど遅かったので筍も遅いかと思っていたら、１週間ほど早かった。自分が料理したりもらっていただいたりするだけでは追いつかず、このところ連日１０本ほども切り倒している。<br /><br />地の面が人間様の通り道になっているとか、倒木や倒れた枯れ竹に覆われているとか、そんなことは竹の根が知るはずもなく、筍は根の張っている地中から地面を割る。<br /><br />もともと面倒くさがり屋で、近年体力の衰えた私が切り倒すのは、もし大きくなって倒れたときに建物にかかる場所や通り道、次の年に筍をとるのに通るであろうところに出ている筍だけなのだけれど、だいたい１時間ほどかかる。<br /><br />一人暮らしの悪癖で気がつけば独り言を言っているのには自分でも気がついているのだけれど、身体にこたえる作業をしていると独り言も多くなる。「すまんなぁ」と筍にいいながら切り倒すのだからたちが悪い。<br /><br />たちが悪いと思っても、やはり明日になればまたすまんなぁと言いながら切り倒す。<br /><br />ある本に曰く、「自分自身を深くかえりみる心が湧き起こって」きて、「自分自身を悪人であると教えられて、よく知ることができ」て、「ともにたすけあって生きている世界に生きていこうと歩み出す」ことによって、「私たち一人ひとりの身に、『本当の人間』（＝仏ということであるらしい。hide-me註）になっていく人生がはじまる」などというのはまったくの絵空事、戯言である。<br /><br />阿弥陀さまの「願をおこしたまう本意」は何であるのか、と、そういうことが何度も頭に浮かんできて、独り言しながら昨日も今日も、明日があればたぶん明日も山を歩く。なかなかお念仏はでて下さらない。]]>
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	<title>桜満開</title>
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	<summary>無理難題という言葉があるけれど、これは人間が作り出すもの。自分が作り出して、自分がそれに頭を抱えさせられる。無理難題というほどのことでもないのだけれど、ちょっと考え事をしながら、明日が空き瓶の回収日なので、少しばかりの空き瓶を持って収集場へと歩いていた...</summary>
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	<![CDATA[無理難題という言葉があるけれど、これは人間が作り出すもの。自分が作り出して、自分がそれに頭を抱えさせられる。<br /><br />無理難題というほどのことでもないのだけれど、ちょっと考え事をしながら、明日が空き瓶の回収日なので、少しばかりの空き瓶を持って収集場へと歩いていた。<br /><br />突然に後ろから「こんにちは」と声を掛けられ、それが私に向かってなのかそうでないのかもわからないまま、見たところ中学生かと思える自転車に乗った女の子の後ろ姿に「おかえり」と声を返した。<br /><br />咄嗟にとる行動というのは明快であることが多い。思慮深い行動というのは、どんなに洗練されていたとしてもその思慮のゆえに鼻につくことが多い。人間の思慮というのは、臭いものらしい。<br /><br />ただお念仏もうさせていただく。けれども、それでは生活が成り立たない。そうではなく、お念仏ということをそういう狭い意味に閉じ込めるのではなく、そういう人間の思慮のうえでのことでなく、ただお念仏もうさせていただく。<br /><br />それは、たとえば時期が来れば花を咲かせる桜のもつ業ように、あるいは呼びかけられたと感じて咄嗟にする返事のように、明快なものだ。]]>
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	<title>春の法要</title>
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	<summary>３月の２８日はお講さん、昨日はいわゆる永代経。今年の「春の法要」が終わりました。うちのお寺では「永代経」と言わずに「春の法要・秋の法要」と言うようにしているのですが、それが何年ほど前からかは忘れました。昨日の法要の法話には、県内の少し離れたお寺のご住職...</summary>
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	<![CDATA[３月の２８日はお講さん、昨日はいわゆる永代経。今年の「春の法要」が終わりました。<br /><br />うちのお寺では「永代経」と言わずに「春の法要・秋の法要」と言うようにしているのですが、それが何年ほど前からかは忘れました。<br /><br />昨日の法要の法話には、県内の少し離れたお寺のご住職が来てくださったのですが、以前に真宗大谷派の儀式概要にない「永代経」というものの起こりについて調べていたときに参考になる文章をネットにあげておいて下さったお寺のご住職でした。<br /><br />今日は少し気が抜けていたせいか朝起きるのも遅かったのですが、それでも７時には朝のお勤めがさせていただけました。かなり豪華版（？）の立花のままで、やはり気持ちのよいものですね。<br /><br />特別な法要があるときだけが仏法をお聞かせいただくときではありません。毎朝毎夕のお勤めや毎日の生活のなかで「お聞かせ」をいただくのが仏法です。生かされているということはお聞かせをいただくということです。]]>
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	<title>まかせる</title>
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	<summary>「まかせる」というのは難しい。たとえば「大根買ってきて〜」と誰かに任せたとしたら、みずみずしくて美味しそうな大根を買ってきてくれても水気のなくなった萎びた大根を買ってきても、それをありがとうといただくのが「まかせる」ということ。それを、萎びた大根を見な...</summary>
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	<![CDATA[「まかせる」というのは難しい。<br /><br />たとえば「大根買ってきて〜」と誰かに任せたとしたら、みずみずしくて美味しそうな大根を買ってきてくれても水気のなくなった萎びた大根を買ってきても、それをありがとうといただくのが「まかせる」ということ。<br /><br />それを、萎びた大根を見ながらよりによってこんなものを買ってきてと文句を言って腹でも立てるのが私。<br /><br />そもそも私は往々にして「まかせる」相手を間違えるし、「まかせる」ことがらを間違える。<br /><br />なむあみだぶつとおまかせしたつもりが、おまかせできていない。<br /><br />なむあみだぶつとお念仏もうしていて、それで毎日の生活のなかで何か自分に不都合な出来事でもあれば、「なんでやねん」と。<br /><br />けれども、そういう私を私に見せて下さるのは、またなむあみだぶつの他にないのです。]]>
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