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法蔵菩薩 (11)

まぁこれは喩えに過ぎません。喩えに過ぎないけれども、お念仏の道というのは阿弥陀さまがひらいて下さったんです。これは決して喩えなどではなく、法蔵菩薩さまはこの私を背負って阿弥陀さまのお浄土へ歩んでいて下さいます。私というものはそれがわからない。遇いがたい教えにであっても、その道を自分が歩くものだと思っています。だから、やはり自分は死に向かって歩いている、そう思っています。お念仏の教えにおであいしながらも、やはり自分は死に向かって歩いているとしか思えないから、お浄土もまた死んだ後に行くところになります。死ぬということはどうもやはりマイナスな感じですね。先ほどの話で言えば私は電気で、生まれるのはプラス、死ぬのはマイナスで、やはりプラスからマイナスへ向かって歩いている。だからどうしても暗い。何かで大儲けでもして大金を持ったとしても、本当には喜べない。笑いが止まらないような嬉しいことがあっても、死に向かっているから、本当には喜べない。悲しいことばかりしかない、辛い思いをするばかりだ、いっそのこと死んでしまおうか。私らは時々そういうことを思う。いや、思わん人もいるかも知れないが、いっそのこと死んでしまいたいというのも、自分で歩むその歩みを止めてしまおうということでしょう。笑いが止まらんような人でも死んでしまいたいと思う人でも、私が私の足で歩いているんだと、同じことを思っているわけです。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり」。穢土というか、娑婆世界、私らの暮らす世界は暗い。妄念妄想の私らが寄ってたかって暗くしている。世の盲冥をつくっている。その妄念妄想の盲冥のなかを、私というもの、それが泣いていようが笑っていようが、みな法蔵菩薩さまの背に背負われている。生まれるのがプラス、死ぬのがマイナスではないんです。プラスもマイナスもないんです。私が私と思っているその私を主体としていると、妄念妄想によってプラスもあればマイナスもあることになる。私が泣こうが笑おうが、私は死に向かって歩まねばならない。そうでない。ただあるのは私となっていてくださる法蔵菩薩さまの歩みがある。南無阿弥陀仏という本願念仏がある。仏願の生起の本末を聞きて疑心あることなし。お念仏がお念仏を生むその根本は南無阿弥陀仏という一切衆生がそれによってすくわれるところの本願念仏の成就にある。それが仏願の生起の本である。分かつことは本来はできないが、あえて分ければそこに仏願の生起の本がある。本があって末がない道理がない。その成就された本願念仏、南無阿弥陀仏という法をもって、法蔵菩薩さまは今この私となって、いまだすくわれないこの私と一体となって、私のつくりとつくる悪を一身に引きうけて、私を背負って歩んでいて下さる。お念仏という大道を絶えることなく歩み続けていて下さる。仏願の生起の末とは、あえて分けて言うところの末とは何か。この五逆の悪衆生であるこの私がご本願を信ぜしめられ、お念仏もうす身としていただくことである。本願を信じ念仏もうさば仏となる。仏とならせていただくときには私などおりません。だから言ってみれば、仏となられるのは私となっていてくださる法蔵菩薩さまである。この私の我執というものはどこまでも強い。どこまでも強いから私が仏となるんだと思う。そういう思い、妄念妄想は絶つことができない。だから絶たなくてよい、絶たなくてよいからお念仏もうしなさい。仏になるのが私なのか法蔵菩薩さまなのか、そういうことは私がわかろうとしてわかるものでない。ただ、お念仏もうすのである。仏教とは本願を信じ、念仏もうさば仏になるという教えです。

今日は漠然と法蔵菩薩さまのお話しをさせていただこうと思っていまして、それが何やかやと思いつくことを言うから筋道もないし、いつの間にやら灯油だ電気だというような話までしてまして、けれども考えてみますと筋道なんてものがもともとないのが我々です。いや、これは言い訳ではなく。しっかりとした筋道というものがあるのは法蔵菩薩さま。如来が筋道をつけておいて下さるその筋道を歩んで下さるんですね。予定していた時間も少し、少しではないですね、かなり過ぎました。話というのは尽きないものでして、明日も明後日もずっとお話しできればよいんでしょうね、法蔵菩薩さまのおはたらきのように。けれども今日は今日でだいたいのことはお話ししたように思います。これで終わらせていただきます。

法蔵菩薩 (10)

仏教というのは、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」教えです。これは親鸞聖人がご生涯をかけてご確認なさった。親鸞聖人がご確認なさったから、仏教とは南無阿弥陀仏であると、そう言うのではありません。どうもうまく言えませんが、いわば仏教がその歴史をもって、お釈迦さまに始まるのでない仏教の歴史を通して、仏教とは南無阿弥陀仏であると示しているのです。「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」、これ、本当は「難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なり」とひとつの文章としては続くのですが、今日は「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」ということだけしか言いません。円融至徳の嘉号、すなわち本願念仏、南無阿弥陀仏は悪を転じて、つまり一切衆生の悪という悪すべてを転じてくださる。そうして徳を成す、お念仏もうす身とならせてくださる、そういう仏の正智である。人間の知恵はすべて悪知恵ですが、この正智というのはそうでない。これは仏の智恵である。だいたい言えばそういうことになると思いますが、円融至徳の嘉号が一切衆生をお念仏もうす身としてくださるということは、つまりお念仏がお念仏を生むということ。本願念仏がお念仏を生むということは、念と念とが相続するということです。お念仏もうす身とならせていただくというと、何かしらこの私というものが徳と言うか善と言うか、そういうものを成すように聞こえますが、そうでない。なるほどお念仏は円融の至徳である、これに勝るべき善はない。しかし、お念仏をもうす私が徳を成し、善を成すのでない。私というものは、これはあくまでも本願念仏によって転じられるべき悪である。徳を成すというのは、本願念仏が、円融至徳の嘉号がお念仏を生む。お念仏もうす身というのは、そこにはもう「私」というべきものはおらんのです。「私」というべきものがおらんようになって、ただお念仏がお念仏を生んでいく。「私」と言っていたものは、では、どこへ行ったか。どこへも行かない、私が私だと思っているような私というものは始めからおらなかったのである。それが分からせていただけるということが転じられるということ。転じられて初めて、始めからこの身はただお念仏もうすことを願われている身であった。私が私だと思っていた私というのは始めからおらず、おったのはただお念仏もうすこの身であった。お念仏がお念仏を生む念と念との相続の中に、ただ、ただというのは必ずということ、ただすくわれていくのがこの身であるという道理が明らかになる。

私は理科といいますか、化学は昔からさっぱり分からないのですが、学生の頃に、中学か高校かの時分に電気のことを習ったのは覚えています。電気が流れなかったらいくら灯油があっても火はつかないんです。火がつかないから少しも暖かくならないんです、冬場に停電になって、こういう電気を使うストーブしかなくて困ったことがあるんではないですか。ここにあるこのストーブ、今も火花を飛ばして灯油に火を付けているのは電気です。その電気というのはプラスからマイナスへと流れる。間違ってたら、詳しい方、指摘してください。電気はプラスからマイナスへ流れるんだけれども、実際には、というか正確には電子というものがあってそれがマイナスからプラスへと移動するのを電気が流れると言っているわけです。私は電気だ、大いに流れて灯油に火を付けて燃やしてやろうじゃないかとね、私らはそう思っているんですよ。ところが実はそうではなかった。電気は確かに流れている。それはそうだけれども、実には電気ではなくて電子というものが、つまり法蔵菩薩さまがおはたらき下さるから、電子というものがいわばお浄土へ向かって勇猛精進志願無倦、和顔愛語先意承問、血の涙をお流しになって、それでも血の汗をおかきになりながら、血の涙を流させるばかりのこの一人を必ずすくうんだとおはたらきくださるから電気が流れていたんです。電気というのは、このストーブもそうですが、電線を流れる。この畳の上にあるこのコード、これをずっと辿っていけば発電所に行き着くんでしょう。法蔵菩薩さまのおはたらきというもの、これは眼に見えないから眼で見て辿るのでないが、辿っていけば阿弥陀さまに辿り着くんです。阿弥陀さまのお浄土に辿り着くんです。阿弥陀さまから、そのお浄土からこの穢土といわれる世界にあって妄念妄想を作って法蔵菩薩さまに血の涙を流させるばかりのこの一人まで、ただひとつの一本道がある。それは眼には見えない。見えません。大信によってひらかれた大道であって、言ってみれば見渡す限りがその道であるから凡夫の眼では逆にそれが一本道だと見えない。阿弥陀さまのご信心によってひらかれた道、それを念仏道というのです。

法蔵菩薩 (9)

話をもとに戻します。戻しますが、今申しました正信偈さんのなかでも親鸞聖人はお釈迦さまが世に出られた所以ということをおっしゃっています、ただ阿弥陀さまのはかりしれないご本願を説かんがためであったと。親鸞聖人はまたご和讃などでお釈迦さまや阿弥陀さまを慈悲の父母とおっしゃっています。私ども普段生活するなかでそんなふうなことを思うことがありますかね、お釈迦さまは父であり母である。阿弥陀さまも我が父であり、また母である。そういうことを思いますかね、思わないで暮らしていますね。そうでしょう、親鸞聖人がおっしゃるからということでなく、今は詳しくお話しする時間もないのですが、お釈迦さまが我が父であり母である、阿弥陀さまも我が父であり母である。実の父母にもまして父母であるのですが、そんなことは爪の先ほども思うことがないですね。五逆罪というのがあって、そのなかには物騒な話ですが父を殺す、母を殺すというのがあります。実の父母にもまして父母である方を少しも、これぽっちも父だとも母だとも思わない、まったく父母でないものにしている。言い方が大げさかも知れませんが、これは殺害父母と言えなくもないですね。また五逆の罪のひとつに仏身から血を流させるということがあるのですが、私のすることすべて、法蔵菩薩さまが血の涙を流されるようなことばかりです。五逆の罪を犯すものは決してすくわれることがないと一般には言われます。けれども、だからこそ、この私、実の父母にもまして父であり母である方をなきものにして、それだけでなくて今ここでご苦労くださっている法蔵菩薩さまをなきものにしているこの五逆の悪衆生である私が決してすくわれないものであるからこそ、だから法蔵菩薩さまはこの私の罪という罪すべてを背負って血の汗を流しておはたらき下さるのである。法蔵菩薩さまの血の汗とは何か。お念仏である。本願念仏である。

法蔵菩薩さまの本願念仏、これを親鸞聖人は円融至徳の嘉号とおっしゃっています。勤行本の82ページに「聖句」というのが掲載されていますが、これは教行信証の総序の最後の数行が省略されたものです。その82ページの終わりの方に「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」とありますね。そのすこし後ろ83ページのはじめには「大聖一代の教、この徳海にしくなし」とあります。お釈迦さまがご一生にわたって説かれた法というものは数知れないほどあるけれども、お念仏のはかりしれない徳に及ぶものではないと、これは親鸞聖人がそう言い切っておられる。仏教とは、南無阿弥陀仏である。そうおっしゃっているとも言えます。お釈迦さまが悟りを得られて、初めてお分かりになったことがあった。それは自分、つまりお釈迦さまに始まるのでない仏教、仏道というものがすでにあるということであった。今日はそれを詳しくお話しはできないのですが、仏説無量寿経にある法蔵菩薩さまの物語というものは、五十三仏の歴史に始まります。五十三仏の次に世自在王仏がおられて、その時に法蔵と名乗る比丘が無上殊勝の願をおこされた。それがいわゆる四十八願であり、その四十八のご本願を法蔵菩薩さまが成就なされて阿弥陀仏となられた。こんな簡単に言えることではないのですが、法蔵菩薩さまの物語というのは言ってみればそれだけのことです。法蔵菩薩さまというのは物語の中の登場人物である。いわば作り話の主人公である、そんなことを言う人もある。しかし、決してそんな浅はかな人間の考えで判断できるものではない。そうでしょう、だいたい物語というものは、言葉で語り得ないことがらを伝えるためにあえて物語として語ったものでしょう。言葉で表現できないもの、言葉で説明できないことをまさに「ものがたる」のが物語であって、たとえば浦島太郎の物語にしても、浦島太郎と法蔵菩薩さまを一緒にすることはできないけれども、物語というのは、そういうものでしょう。法蔵菩薩さまの物語にある言葉で表現できないもの、それは何か。それは何かと言っても、これだと言えるものでない。もともと言葉で説明できないものを言葉で言えるはずがない。それをですね、長い歴史の中で先達たちは何とかして明らかにしようとしてこられたわけです。それぞれの時代時代の中で、何とか言葉にしてこられたわけです。正信偈さんのなかにお名前のある七人の高僧方だけでなく、名もない方達がこぞって法蔵菩薩さまの物語とは何か、法蔵菩薩さまとはいったいどういう方であるのかと問い続けてこられた。その歴史の果と結するところがすなわち南無阿弥陀仏である。本願念仏、円融至徳の嘉号である。法蔵菩薩さまの物語がものがたるのは、本願を信じ、念仏もうさば仏になるという道理である。法蔵菩薩さまという方は、今この私となっておはたらき下さる方である。五逆の罪の極重の悪人であるこの私が、それでもすくわれるという道理をお示しくださるのが法蔵菩薩さまの物語であって、仏教とは、一切衆生が阿弥陀さまのご廻向によってご本願を信ぜしめられ、必ずお念仏もうす身とならせていただいて仏という果をいただく道である。

法蔵菩薩 (8)

法蔵菩薩さまは本願念仏をもって衆生と一体となって、和顔愛語先意承問、今現におはたらき下さっている。阿弥陀仏が法蔵菩薩となり、その菩薩が衆生にまでなっていてくださるのです。仏が菩薩となり、菩薩が衆生にまでなっておはたらき下さる。なぜか。この私がいまだすくわれないままだからであって、それは我々の世界にもあるような「親身になる」などというような程度のことでない。法蔵菩薩さまはこの身になり切っておはたらき下さっている。私らは夜になると眠ります。夜でなくても、眠くなれば寝ます。法蔵菩薩さまはお眠りにはならん。これは喩えて言うようですが、我々寝ているときにはだいたい目と口を閉じているけれども、耳と鼻は閉じない。耳と鼻は閉じようとして閉じられますか、閉じられません。そういうようにできている。鼻は息を吸い息を吐く。これは息をするということであって、それは生きるということでもある。耳は聞く。何を聞くかといえば、法蔵菩薩さまのお念仏をお聞きする。声というか音を聞くのでありません、南無阿弥陀仏というおはたらきをお聞きする。まるで死んだように眠っていても生きている。生きているということは、だからお念仏をいただくということである。起きて目を開いていると、見えるものだけがあるものだと思う。おまけに口まで開くと、言うことといえば愚痴と自慢だけであって、先ほど申しました自分を省みるなどということも所詮は自慢ですが、おや、何だか静かだなと思えばお饅頭か何かでも食べているんですね。いやいや、笑い事ではありません、そうでしょう。お念仏もうすということは忘れているでしょう。それが時々思い出してお念仏もうすようなときというのは、たいていがもの頼み。この私を何としてもすくうぞと、仏が菩薩となり菩薩が私となっていてくださる法蔵菩薩さまに申し訳もございません、まことに有り難うございますというような気持ちなど微塵もない。なんということですか、これは。

これはまた今思いつきまして言うだけのことですが、同朋奉讃式とか言って正信偈のお勤めをしますね。内緒ですけど、あれ、よくお勤めができるもんだと時々思います。正信偈さんの三句目に法蔵菩薩因位時とありまして、この私となっておはたらき下さる法蔵菩薩さまに申し訳ない、私というものはこの上なく有り難いおはたらきをいただきながらお念仏もうすこともできないでいる者だと、法蔵菩薩さまのお名前を三句目に見てふと思わせていただいたりしますと、もう何だか最近は特に涙腺が弱くなっているせいか、涙目になって声もふるえだします。お勤めが続けられなくなって、ただもうわけも分からないままで、気がつけばなんまんだぶとだけ言て続けています。もしお勤めもできんなら坊主失格だと言われるなら、私、喜んで失格になります。あの正信偈さんというもの、親鸞聖人のご制作の意図と申しますか、なぜおつくりになったのかということにつきましては私なりに思うところはあるんですが、それはみなさんにご披露するようなものでもありません。けれども、これ確か先ほども言ったように思いますが、親鸞聖人が書いておかれないこと、つまり法蔵菩薩さまが今ここで本願念仏をもってご修行くださっているということこそが本当の大事で、それは勤行ということとはまったく意味合いの違うところにある一大事です。それが勤行となると、勤行もまた意味合いの違う大事ではあるのですけれども、正信偈さんにある一大事がないものになる。どうもそんなことを思いますね。勤行ということは、それはそれで大事です。けれども、それよりも何よりも大事なことがあります。時々うちの孫は正信偈をそらんじていて、毎朝毎晩お勤めをすると言って自慢なさる方がありますが、どうも大きな間違いが二つほどはあるように思いますね。

法蔵菩薩 (7)

つまらないことを言いましたが、機ということ、そこにはたらいて下さる法蔵菩薩さまのお話でして、だいたい私たち、本当に苦しみのなかにあるとき、それを誰かに話そうという気になるものでしょうか。自分の胸のうちというもの、余程の人にでなければ言う気にはならないのではないでしょうか。他の人のことは分かりませんから自分のことしか言えないのですが、このあいだ血圧の薬をもらいに行って、どうもこの頃何も身体に負担のかかるようなことをしてもいないのに突然に動悸がすることが多くて、胸が詰まりそうになって、というようなことをお医者さんに言いましたらパニック症という病気じゃないかと言われました。それはどうでもよいのですが、胸が詰まって息苦しくなって身体を動かすこともできなくて、大げさに言えばいよいよ娑婆の縁も尽きるかと思うようなときには、私はまわりに人は居てほしくないです。まわりに人が居ると、人目につかないところへ行きたくなって身体を動かすもんだから余計に苦しくなります。「どうしたんですか、大丈夫ですか」なんて言われても、それに応えるのが苦しいんです。「いつものことで、大丈夫です」とそれだけのことが言えないことが多くて本当に失礼をしてしまうんですが、そういうことが重なってきてまして、実際のところこの頃は人前に出るのも少し気が引けるんですが、法蔵菩薩さまは「どうしたんですか、大丈夫ですか」なんておっしゃいません。すでにご承知なんです。先ほど申しました先意承問ですね、こちらが何も言わなくても、何かを言う前に何もかも分かっていて下さる。この私の身と一緒になっていて下さるから、私と一緒になって苦しんで下さっていて、お念仏もうしなさいよと和顔にして愛語してくださるんです。私がいのちのご縁をいただいたのは、そういう阿弥陀さまの大悲のなかなんです。親身になるという言葉がありまして、これは字の通りで親の身になる、親のようになるというようなことだそうです。世の中には他人さまが困っておられるようなときに本当に親のようになってお世話なさる方がおいでになって、私なんかには真似もできないんですが、如来の大悲というもの、法蔵菩薩さまのおはたらきというものは、親身になるどころではありません。この私、この身になってくださるのです。いや、これからなってくださるのではなくて、すでになっていてくださるのです。そういう如来の、法蔵菩薩さまのおはたらきのなかに、私はいのちのご縁を賜っているのです。機であるということは、そういうことです。ですから、私は私のことを私と言っておりますが、それはその通りではあるのですが、実は私というのは、如来の、法蔵菩薩さまのおはたらきの場でもあるのです。私は私である、確かにそうであるけれども、そうであるだけではなくて、これ(この私)は如来のおはたらきの場であり、法蔵菩薩さまが今も菩薩行をご修行くださる場でもあるのです。

翻って自分自身をみてみればどうかなどというようなことは、私は申しません。言うまでもないことで、如来と申しますか、法蔵菩薩さまをなきものにするようなことしかしておりません。これまでもそうでしたし、これからもそうです。なるほど一旦は法蔵菩薩さまがここにおはたらき下さる、有り難いことだと涙がでるかも知れませんが、信楽受持甚以難難中之難無過斯とおっしゃっておかれる通りです。それだけではなくて、何か先ほども言ったような気がするのですが、自分を省みる自分をどうするのか、もっと言えば自分を省みる自分というものを客観する自分をどうするのかという問題があります。何か事を成し遂げた、それに満足する自分がいて、それではいけないんだと自己批判する、その自己批判する自分をどうするのか。本山へでも行っておかみそりを受けた。これでやっと法名がいただけたと満足する自分がいて、そうではないんだ。それで満足していてはいけない、これから仏法をお聞きしていかないといけないんだと思い直す、その思い直す自分はいったい何者ですか。自分を省みるということは邪見驕慢の悪衆生の鼻をどんどん高くするだけのものでして、何か大きな穴のなかにいて、その中で、その中にいると知らずにまた穴を掘るようなことでして、それは実は何か一段高いところに自分というものを置いておいて、そうとは気づかないままにその一段高いところで足継ぎ台をどんどん積み上げていくようなことでないかと思います。うまく言えないのですが、自分をどんどん掘り下げてみていくということは、結局つまりは自分をどんどん高みに置くだけのことでないか。どうしてもそうなるのが人間というもの、この私、衆生というものでないか。だから法蔵菩薩さまは衆生というものになり切っておはたらき下さるのではないかと、そう思うわけです。

法蔵菩薩 (6)

昨日あたりからでしたか一昨日くらいからでしたか急に寒くなりまして、今日はストーブがたいてあります。このファンヒーターというのは漆にはよくないのでしょうが、暖かくてありがたいですね。ストーブがたいてあると言いましてもストーブが燃えているわけではなくて、燃えているのは灯油です。これは冗談ではなくて、機ということを言うのですが、機というのは喩えてみれば灯油です。灯油は燃えるという性質をもともと持っているけれども、瓶にでも入れておけばそれだけで燃えるというものではありません。マッチに火をつけて灯油の入った瓶に放り込めばたちまちに燃え上がります。灯油というのはそういうものでしょう。機というのもあらゆる衆生がもともともっている性質・性能で、それ自体でははたらかない。それ自体ではというか、自分からははたらかない。瓶に入った灯油である。けれども、いったんご縁によって法というもの、如来のおはたらき下さる南無阿弥陀仏に触れればたちまちに火がつく。火がついて、衆生の身が粉になって骨が砕かれるところまでその火が消えることはない。衆生というものには、そういう性質がもともとある。ですから、先ほど申しました恩徳讃、あれは決してこんな意味ではありませんが、如来の大悲、師主知識の恩徳というものに報じんとして、わずかでもそれが適うその時には身は粉になるだろうし、骨はくだけて灰にまでなる。そう言うこともできるかと思うのですが、それは衆生というもの、この私が機といわれる性質・性能をいただいているからである。


つまりですね、衆生といわれるこの私、私たち一人ひとりすべて、気がつかなかったんだけれども南無阿弥陀仏という本願念仏の満ち満ちる世界にいのちのご縁をいただいていた。衆生多生不可思議などという言葉があるようですが、次から次へと生まれてくる衆生というもの、そのすべてが、その一人ひとりが、すべて阿弥陀さまの願いのなかに、必ずあなたさまにすくわれる身とならせていただきますと「おぎゃー」と産声をあげたのです。あなたお生まれはどちら?はい、滋賀県でございます。確かにそうです。そうですけれども、そうではなくて、それだけではなくて、私は阿弥陀さまの願いのなかに生まれた。皆がみな、肌の色だ話す言葉だというようなことにかかわらず、皆がみな南無阿弥陀仏という本願念仏のなかにいのちのご縁をいただいたんだ。そうでしょう、だから初めて「平等」である。滋賀だの京都だの大阪だのというところにある「平等」は絵に描いた餅、あるいは理念、そうであればよいのになぁーという理想でしかない。皆がみな阿弥陀さまの願いのなかに平等にいのちのご縁をいただいた、必ずお念仏もうす身とならせていただきますと産声をあげた。そういうところにしか本当の「平等」ということはない。理念理想をもってそれを求めることは、それはそれでよいことです。けれども、本当の平等ということを知らないままでは、それはかなり困ったことになるのではないかと思います。


これは今ちょっと思いついたから言うだけのことですが、理念理想をいう言葉だけに酔って始められた運動というものがあってすでに五十年がたつけれども、先ほど話したファンヒーターに喩えれば一旦は火がついた、ついたけれども火がついたからもとの理念理想が消えて何かわけのわからんものが燻っているようなことで、運動などというものはだいたいそういうものなんでしょうかね、もうコンセントが抜けてしまっている。だから不完全燃焼の灯油の臭いがたまらない程に臭う。私はそう思います。臭くてたまらない。けれども、何も臭いを感じない方もおられるようで、今年に入って若いご住職さんのお話を聞くことがあって、お寺というのはみんなが集まって悩んだり苦しんだりしていることを言ったり愚痴を言ったり聞いたりして、思うことを話し合う場だとおっしゃる。続いて何をおっしゃるかと思えば、みんなで話し合ってそれで何かが解決するわけではないけれども、お寺とはそういう場所だとおっしゃる。私は違うと思う。断じてお寺はそんなところではありません。お寺というのは、集まった一人ひとりがすでに阿弥陀さまが人間のあらゆる問題、この私のすべての問題に南無阿弥陀仏と解決をしておいて下さることをお聞きして、お念仏もうす身とならせていただくところです。今ここに、この身において法蔵菩薩さまがおはたらき下さっているということをお聞きするのです。仏願の生起の末ということ、つまりこの私、この自分でもどうしようもない一人を何としてもすくわずにはおかないと法蔵菩薩さまが志願倦くことなく勇猛精進にして和顔愛語先意承問して下さっているんだということを頭で理解するんでなくこの身で分からせていただく。お寺というのはそういうところです。ですから、まぁ何もお寺でなくてもよいんですが、このお寺というのは中国ではもともとの起こりは今で言えばお役所、役場の住民課みたいなものだったそうです。どうも私なんかには臭いが鼻についてかなわん運動は、お寺というものを公民館か何かのお役所のようなものにしてしまっているんでないかと思ったりします。お役所のようなものだから、道理で南無阿弥陀仏ということを言わないですね。

法蔵菩薩 (5)

ところで、正信偈さんには書かれていない法蔵菩薩さまの菩薩行、仏説無量寿経にはその本願修行が説かれてありまして、そのなかに「和顔愛語にして、意を先にして承問す」というのがあります。この頃の季節になりますといろいろなカレンダーをいただきます。この頃は不景気で、カレンダーをくださるところも減ったのかも知れませんが、そういうカレンダーの中には生活訓のようなものが書かれたものがありまして、和顔愛語という言葉が書かれたりしています。まるで人間ができることのように書かれておりますが、そうでない。そうでしょう、いくら和やかな顔で愛しみの言葉を心がけていても、米びつの底が見えていて、明日食べるお米を買うお金もないようなときに隣の家がお米をわけてくれないかと言ってきたら、どんな顔つきでどんなことを言いますか。まぁ米びつの底が見えているようなところは、だいたいお隣さんもそれをご存じで、お米をわけてくれとは言ってこないんでしょうが、言ってきたら鬼のような顔になって「ない袖は振れんわい」となるんでないでしょうか。和顔愛語先意承問というようなこと、これは人間にできることではないのです。

法蔵菩薩さまは和顔愛語にして先意承問してくださる。先意承問というのは、衆生が何かを言う前に衆生の意(こころ)を知り尽くして、衆生の言うことを聞いて、衆生の意を満たしてくださるということで、法蔵菩薩さまは勇猛精進、志願倦むことがない。いったいこの先意承問ということ、何故そんなことができるのか。こんなふうなことは何故と問うようなことでもなかろうかとは思いますが、何故そんなことができるのか。それは法蔵菩薩さまという方が衆生というもの、我々一人ひとり、この私となっていてくださるから、この私が何かを言うまでに私の意というものを知り尽くしてくださる。衆生というもの、この私というものは何も分からないもので、何が分かっていて何が分からないかがそもそも分かっていない。何かひとつ分かったような気になって、それをもってだいたい世間というものはこうだ、人間というのはこんなようなものだなどと言うけれども、実はそもそも何一つ分かっていない。仏法というものを勉強するような人は時々私は悪人でございますと殊勝なことを言うけれども、殊勝なことを言っているその私というものが何者かが分かっていない。だいたいこの頃は自分自身の本当の姿に気づきなさいなどというこを言う人がいるけれども、自分自身の本当の姿に気づいたとして、その自分が自分をすくうとでもいうのかと、私などはそんなことを思わずにはおれないのですが、法蔵菩薩さまという方は私の知らないうちに私となっていてくださって、私というものを知り尽くして、私が何一つ分かっていないことも、驕慢であって邪見しかもたないものだと見通していてくださる。しかも和顔愛語にして先意承問してくださるということは、一切の衆生がすくわれる法というもの、まさしくこの私がその法によってすくわれる法というものを成就しておいてくださるから和顔にして愛語ができる。衆生の意を知って、さてこれから法を見つけようというのでない。あらゆる衆生がすくわれる法を成就して、その法を以てこの私となっていてくださる、それが法蔵菩薩さまという方であるのです。

法蔵菩薩 (4)

法蔵菩薩さまは今ここにおはたらき下さっている。しかも「聞其名号」の「聞」を「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」、それを聞というのだと親鸞聖人はおっしゃっているのですから、お名号に仏願の生起・本末をお聞きするということであって、法蔵菩薩さまはそのお名号となって今ここにおはたらき下さっている。その方を如来と申し上げるのだと、私などにはそれで十分でして、因位だ果上の因だというようなことは学問学識のある方におまかせしておけばよいことかと思うわけです。

今日は秋の法要ということですが、こういう法座がありまして、一応終わりとなりますと最後には恩徳讃を唱和しますね。あの恩徳讃に如来大悲の恩徳とありますね。いったい如来の大悲とは何をさして親鸞聖人は言っておられるのか。そもそも如来と言っておられるその如来、私どもはどうも漠然と、どこかしら神秘的というか、自分と関係のないもの、もっと言ってしまえばわけのわからないもののように感じているのではないかと思いますが、どうでしょう。この如来と申しますのは、お名号となっておられる法蔵菩薩さまである。毎日お勤めする正信偈さんのなかにお名前のあるあの法蔵菩薩さまが如来であって、この法蔵菩薩さまは名であり号である。お名号と申しますのは、名は因の位にあるお名前で、号はこれは果の位のお名前であって、二つ別々にあるのではなくて因位の名と果位の号でひとつの一体のお名号である。お名号であって、たとえば重誓名声聞十方とおっしゃるところと比較してみれば明らかなように、名声ではない。法蔵菩薩さまはお名号、つまり因と果を併せ持つ如来である。このお名号である如来が因と果を併せ持つところが法蔵菩薩さまの法蔵菩薩さまである所以であって、ここにある因と果とは、これは衆生の往生の因と果である。この衆生往生の因と果、これを仏願の生起の末という。南無阿弥陀仏というお名号に、衆生の往生の因もあれば果もあるわけです。

これをもう少し詳しく言えば、阿弥陀さまが南無なされるところに因がある。善導大師の六字釈によれば、南無というは帰命であり、また発願廻向である。阿弥陀さまが発願ご廻向くださるところに衆生の往生の因がある。阿弥陀さまのご廻向には、衆生は絶対に、絶対にと申しますのは無条件ということ、絶対に無条件に帰命せしめられる。南無阿弥陀仏にある因果は仏の方の因果であるから、因が即ち果となる。無条件に阿弥陀さまに南無帰命せしめられる衆生というもの、これに必ず仏果を得さしめる。これは何故、何によって衆生に仏果というものが得さしめられるかと言えば、これもまた善導大師の六字釈によれば「『阿弥陀仏』と言うは、すなわちこれ、その行なり。」、南無阿弥陀仏の阿弥陀仏を「その行なり」とおっしゃる、その行が即ち今ここにおはたらき下さる法蔵菩薩さまであって、その法蔵菩薩さまのおはたらきによって一切の衆生というもの、必ず仏果を得さしめられる。だから、南無阿弥陀仏というお名号に、衆生の往生の因もあれば果もあるのです。

法蔵菩薩 (3)

私などの思いますことはつきつめれば邪見に他ならないのでしょうが、法蔵菩薩さまは今ここ、ここと申しますのはこの私のことでして、皆さんにしてみればそれぞれお一人おひとりでして、正信念仏偈をお書きになられている親鸞聖人にあっては聖人ご自身のことなのですが、今ここでおはたらき下さっている。だから、法蔵菩薩さまの菩薩たる所以である菩薩の行については、これは書けない。これからも自身の身に聞いていかねばならないことである。だから書きようがないと、そんなふうなことでないかと思います。こんなことを言いますと、何を言うか、やはり邪見だと。法蔵菩薩さまはご苦労あって、すでに十劫の昔にご本願を成就なされて、阿弥陀さまとなっておられるではないかとおっしゃる方があるかも知れません。それは一応なるほどごもっともでして、その通りです。仏の世界では必ず因が果となる。だから因位の法蔵菩薩さまは果位の阿弥陀さまとして証果を得られてあって、今私の身に聞いていかねばならないのは如来のおはたらきである。これはもうその通りでして、ごもっとも、ごもっともなのですが、おもしろくない。おもしろくないというと語弊のあることなんでしょうが、だいたいおもしろくないのは理屈を言うからおもしろくない。理屈というか、教条を主義とするようなことはおもしろくない。生きていないからおもしろくない。生きていない理屈には理屈で応じるとして、では、いまここにいるこの衆生というもの、これは十劫のはるか昔の衆生がここにいるのか。あるいはまた、法蔵菩薩さまの菩薩の行は不可思議兆載永劫とあるけれども、永劫とはいったい十劫を過ぎれば尽きてしまっているものなのか。

まぁそういうことを思いまして、私は私の身に感じるところをもって、あるいはいろいろとお聞きするところによって、法蔵菩薩さまは今ここにおはたらき下さっていると、そう申しあげるわけです。少し調べたりしますと、大乗の仏教では還相の菩薩というようなことも言うようです。ですから、この法蔵菩薩さまはやはり還相なさって、そうして今ここにはたらいていて下さると申しましても、私が感じますこのことは、まるまる邪見でもないようです。果上の因と言うようです、この今ここでおはたらき下さる法蔵菩薩さまのことを。「法蔵菩薩因位時」なのですが、それだけではなくて、果の位にお就きになられたそのうえで、お浄土からまたこの穢土と申しますか、娑婆世界と申しますか、いまだすくわれない衆生が実にのんきに泣いたり笑ったりしているこの世界に来てくださって、ご修行くださる。仏説無量寿経にも「従如来生」という言葉がありまして、これは如、如ということは真如、その真如の世界から来生してくださるということですが、やはりこれは法蔵菩薩さまとして還相して今ここにおはたらき下さるということをお釈迦さまがお説きになっているのでしょう。

法蔵菩薩 (2)

正信偈さんのはじめのところに
法蔵菩薩因位時   在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因   国土人天之善悪
建立無上殊勝願   超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受   重誓名声聞十方
とあります。そしてその続きに
普放無量無辺光   無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光   不断難思無称光
超日月光照塵刹   一切群生蒙光照
本願名号正定業   至心信楽願為因
成等覚証大涅槃   必至滅度願成就
とあります。正信偈さんのなかで「弥陀章」と言われるところですが、これはだいたいに言えば、仏願の生起の本をおっしゃってあると、そういうことになるかと思います。

正信偈さんのこのあたりは、親鸞聖人が経のなかの経とおっしゃる仏説無量寿経をいただかれて阿弥陀さまの本願成就を確認なさって書いておかれるのですが、仏説無量寿経をみますと、重誓名声聞十方までは法蔵菩薩ではなく法蔵比丘として説かれてありまして、普放無量無辺光から必至滅度願成就までは、これはもう阿弥陀仏のことを説いておかれます。これはあくまでもお釈迦さまのお言葉を「お経の文言」としておいて、厳密に言えばということになるのですが、親鸞聖人は正信偈さんに法蔵比丘と阿弥陀さまのことは引いておかれるけれども、法蔵菩薩さまその方、つまり申しますと、菩薩の行を行ぜられるのが菩薩であるわけで、菩薩行を行ぜられる法蔵菩薩さまのことは何も書いておかれません。

正信偈さんに仏願の生起の本、ご本願成就の因果を書いてはおかれるけれども、法蔵菩薩さまの法蔵菩薩さまたる所以である菩薩行を修せられることについては何も書いておかれない。あくまでも厳密に言えばのことではありますが、沙門となられた法蔵さまの世自在王仏の御許での比丘としての四十八願のご建立、重ねて名声、これは名号ではなくご本願成就以前のことですので名声であるわけですが、名声聞十方とお誓いになられた。ここからがいよいよ法蔵菩薩さまの菩薩としての菩薩行という不可思議兆載永劫のご苦労があるわけですが、正信偈さんには、次には普放無量無辺光無碍無対光炎王とありまして、これは阿弥陀さまのことが書かれているわけです。本願名号正定業至心信楽願為因成等覚証大涅槃必至滅度願成就と、これは阿弥陀さまのことですね。

法蔵菩薩 (1)

『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。これは『教行信証』の信巻にある言葉です。お釈迦さまがご自身の身に於いて阿弥陀さまのご本願成就を確認なされた、それを仏説無量寿経下巻の始めに説いておかれまして、それを「本願成就文」と言っております。

「本願成就文」については今日は何もお話しませんが、親鸞聖人はその「本願成就文」の「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の「聞」ということについて「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを『聞』曰うなり。」と、こうおっしゃっていまして、「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。」とおっしゃるその「仏願の生起・本末」とは何であるのか、どういうことであるのか。まずそういうことからお話しようと思うのですが、この仏願の生起・本末ということにはいろいろの解釈があるようです。いろいろの解釈があるなかで、これは仏願の生起の本と仏願の生起の末であると解釈なさる方のお話をもとに、仏願の生起・本末ということについては、私はいわば受け売りをさせていただく次第です。

仏願の生起・本末とは仏願の生起の本と仏願の生起の末である。そうは申しましてももとより仏願の生起には本も末もないのでしょう。それをあえて言えば、一応分けて言うならば、ということになるかと思いますが、一応分けて言うならば、仏願の生起の本とは因位の法蔵菩薩さまが果位の阿弥陀さまとなられる、自らお建てになった四十八のご誓願を成就なさって、本願念仏を円成なさって阿弥陀仏となられる、その因果が仏願の生起の本である。また別の言い方をすれば、因位の法蔵菩薩さまが果位の阿弥陀さまとなられる往相が仏願の生起の本であると言うことができるかと思います。

功徳と荘厳 (6)

私は如来の荘厳とならせていただくのであり、南無阿弥陀仏という円融至徳、万行円備の本願念仏という荘厳としての「いのち」をいただくのであり、それを往生というのである。自身が荘厳とならせていただくとき、学問であるとか、道徳や生活の規範をまもるという意味での「修行」など何の必要もないわけで、むしろそういう飾りは、そういうのは身を飾るアクセサリーと同じような飾りにしか過ぎないのですが、飾りに過ぎないが故に邪魔になるし、妨げになるのです。

私たち自身が身につけようとして身につけられる徳というのは往々にして喧嘩をしあうものなのですが、仏の徳にはそういうことがありません。仏となっていて下さる阿弥陀さまのあらゆる徳というものが完全に解け合っているということが円融至徳であり、阿弥陀さまが仏となられるにあたって大変なご苦労あって、仏となるのに必要なあらゆる行を行じておいて下さるということが万行円備であります。

南無阿弥陀仏というお念仏は、円融至徳であり、万行円備であるわけで、その南無阿弥陀仏を阿弥陀さまが私たちに回向して下さる、至心に回向して下さる。ただお念仏もうしてその本願念仏をいただくということは、如来の荘厳としての「いのち」をいただくことであるわけです。

功徳と荘厳 (5)

荘厳という言葉の辞書的な意味はお飾りですが、私たちの身の回りに「飾り」というのは満ちあふれています。そう思います。例でもあげればいいのかも知れないですが、例をあげるまでもないかとも思います。

お念仏もうす衆生とならせていただき、本願念仏の荘厳としての「いのち」をいただくならば、自身が阿弥陀さまのお浄土のお飾りにならせていただくのであって、ですからお飾りということは私が私の身を飾ったりすることではなくなるのです。思いますに、最近は男性でもお化粧をする人もあるようですので女性だけに限る話ではないのですが、必要以上にお化粧をしたり、アクセサリーをやたらと着けたりするのは、あれはつまり心持ちといいますか、気持ちがお浄土のお荘厳となるのとはまったく別の方向を向いているということではないでしょうか。

これは別の話にはなるのですが、如来が私となっていて下さる、これこそが法蔵菩薩さまの降誕であるというようなことをおっしゃった先達がおられまして、確かなといいますか、ご縁に依らない私があるのでなく、如来がいまこの私が「私」と言っている者になっていて下さるのであるということに思い至れば、そこに法蔵菩薩さまがこの私一人をすくうためにいよいよご苦労して下さるのであるというようにいただいておりますが、そうしますと、往生成仏は私となっていて下さる法蔵菩薩さまにあるのであって、決して「私」ではないということになるかと思います。

私たちは南無阿弥陀仏とお念仏もうしながらも、どうもご縁によらないような確かな私を仮設していて、その「私」が往生し成仏するのだと思っているのではないでしょうか。そういうことが自縄自縛というか、好んで自身をすくわれないようにする原因であるように思います。

功徳と荘厳 (4)

ところで、この二つの扇が向かい合っているような形の一方の扇形、これは実際の扇ですからこれだけしか開けないのですが、これを如来と喩えるなら、如来は光明無量寿命無量であって、そのおはたらきに限りがないのですから360度開けるということになります。如来のおはたらきを360度開いたならば、もう一方のお念仏の衆生の側もやはり360度開けるのが道理でして、言ってみれば如来とお念仏の衆生が重なり合うといいますか、解け合うのです。あくまでも喩えではありますが、こういうことを「いのち」をいただくといっているわけでして、如来とお念仏の衆生というものが別々にあって、向き合っていると言うようなことではないということが言いたいのです。

如来とお念仏の衆生が重なり合い、解け合うところのこの中心になるのが南無阿弥陀仏である。そこにあらゆる衆生がすくわれる。如来とお念仏の衆生が重なり合い、解け合うというおはたらきである南無阿弥陀仏が本願念仏であって、それを成就して下さったのが阿弥陀さまなのです。本願念仏を成就して下さったから阿弥陀さまはありとある仏さまのすべての特徴というものをすべて円満に具えておられるということなのです、これは逆の言い方をすればということです。

功徳と荘厳ということを考えますと、基本的には功徳が荘厳を生む。ただそれだけではなく、また生まれた荘厳がまた功徳となるということが言えると思います。さて、私たちの実際のところに目を移してみると、どうでしょう。南無阿弥陀仏という功徳の荘厳としての「いのち」をいただいた「念仏の衆生」というあり方とはほど遠いのではないでしょうか。

本来、如来と私たちは重なり合い、解け合っているのであって、その中心にあるのが南無阿弥陀仏なのですが、その本来の姿というものを見失ってしまって久しく、本来の姿がどういうものであるのかということが分からないままに、何かしら自縄自縛というか、好んで自身をすくわれないようにしているかのような状況にあるのが私たちの実際のところなのではないでしょうか。

功徳と荘厳 (3)

私たちの側からいえば、そこに回心がある。ただの衆生であり、知恵や慈悲というようなものを求めて仏や菩薩に頼んでいたけれども、そうではなかったんだ、阿弥陀さまに願じられていたんだと気づかされるということがあるわけです。何一つとして仏となるについて助けとなるようなものはなくとも、何一つないそのままで、ただ南無阿弥陀仏とお念仏もうしてくれよと願われていたのであったと気づかされて、お念仏もうす衆生として南無阿弥陀仏という功徳の荘厳としての「いのち」をいただくのです。

先ほどは喩えとして二つの扇が向かい合っているような形の一方の扇形を南無阿弥陀仏という功徳だと言いましたが、この南無阿弥陀仏という功徳はそれこそが真如の世界から来たった如来であるとも言えます。二つの扇が向かい合っているような形の一方の扇形が如来であってもう一方の扇形は念仏の衆生であると喩えてみますと、この要の部分、ここに南無阿弥陀仏があるということになるかと思います。

如来と念仏の衆生との交際、ここにあるのが南無阿弥陀仏である。如来は至心に南無阿弥陀仏と回向して下さり、衆生はその清浄なるご信心をいただいてただ南無阿弥陀仏とお念仏もうすのです。如来とお念仏の衆生との交際にあるのが南無阿弥陀仏という本願念仏であるわけです。

功徳と荘厳 (2)

その阿弥陀さまの功徳ということ、それは特徴などという意味ではありませんが、阿弥陀さまが阿弥陀仏となられる因となった正覚という意味での功徳は無量であり、限りがないのです。なるほど私たちのいただく仏説無量寿経に説かれているご本願は四十八なのですが、数の問題ではなく、その中の第十八の願、この至心信楽の願とも念仏往生の願ともいわれる第十八願に功徳が総じられています。その成就によって本願念仏があり、第十一の必至滅度の願果があるのです。あらゆる衆生がすくわれるべき本願念仏という法を成就して仏となられたのが阿弥陀仏であるのです。

特に知恵を頼んだり、あるいは特に慈悲を頼んだりしなくてもよいのです。すべての功徳が南無阿弥陀仏にあります。すべての功徳があるだけでなく、普通であれば私たち衆生が仏や菩薩に頼むわけですが、その頼むということに必ず含まれる清浄でないものをも排して下さり、阿弥陀仏が南無せよとはたらきかけて下さるのです。

そういう南無阿弥陀仏という功徳の宝海が自ずから開くもの、あるいはことという方がいいのでしょうか、功徳の宝海である南無阿弥陀仏に開けてくるのが荘厳であるのではないかと、それこそが真に荘厳と言うべきことではないかと、これは私の独断で、そう思うのです。

これはあくまでも喩えでして、ここに持っておりますこれは中啓といいますが、扇の一種です。この要がもう少し真ん中にありますとより分かりやすいのですが、こうして要の上を開きますと要の下も開けるのです。これは中啓という「もの」ですから、「ものの道理」になるわけですが、要の上だけ開いて下が開かないことはありません。下だけ開いて上が開けないということもありません。

これは要がこの位置にありますので全体としてこういう扇形、扇の一種ですから扇形になるのですが、要がもう少し真ん中にありますと、銀杏の葉っぱを二枚向かい合わせたような形になります。扇が向かい合っている形になります。

たとえば、この上の方を南無阿弥陀仏という功徳の宝海であるとするならば、必ずそれに向かい合って下の方に荘厳ということが開けてくるのです。ものの道理を言うのでなく、ものの道理を喩えとして仏の世界の道理をいうわけで、これも相依相待という縁起というあり方のひとつです。

功徳と荘厳 (1)

功徳という言葉があります。これは一般には仏の特徴であるというふうに説明されるようですけれども、そんなことなのでしょうか。また荘厳という言葉があります。こちらはお飾りであったり、仏像や仏像を安置するお堂を立派におごそかに飾ることだということですけれど、これもそんなことなのでしょうか。

たぶん今日ある多くの仏教を名乗る教えにあってはそういうことであって、それ以外にないのかも知れません。やれこの菩薩さまは智慧の仏さまで、この仏さまを頼めばもう知恵海の如くなるだろうというようなことを耳にします。またこの菩薩さまは慈悲の菩薩さまであって、頼めば病も怪我もたちどころに快方に向かうだろうというようなことも聞くことがあります。

そうすると、どうも菩薩さまは忙しくて忙しくて大変なご苦労をなさっておられるようになります。そのご苦労が菩薩の菩薩たる所以ではあるんでしょうけれども、大忙しで手が千本あっても足らない。千本あっても足りないから、この狭い島国のあちこちに菩薩さまは数多くおられるようで、それはそれでおおいに結構なことであるのかも知れません。

私どものいただく浄土の真宗では、阿弥陀さまはもしかするとお浄土でくつろいでおられます。静かに黙想して、あるいは昼寝でもしておられるかも知れません。昼寝でもしながら、南無阿弥陀仏と念じておられる。阿弥陀さまが、そのご本願の成就によって法としてのはたらきを現にもっている本願念仏をご自身もまた称えておられると、そういうことであるわけです。

南無阿弥陀仏を成就なさったということは、ご自身もまたそのあらゆる衆生がすくわれるべき法に南無なさったということであって、いわばそこに入り込まれた。本願念仏というものは教えであって、しかしただ教えであるにとどまらず、はたらきであって、そこに衆生がすくわれるのです。阿弥陀さまは静かに黙想でもなさって、すくわれていく衆生をご覧になって南無阿弥陀仏と称えておられるのです。

功徳ということが仏の特徴であるというのなら、阿弥陀さまは特徴のない仏だと、これはものの言い方の話になるわけですけれども、特徴のない仏さまだと言えるのでしょう。特徴というものはやはり際だつところのあるものを言うのでしょうから、阿弥陀さまは際だつところがない、そういう意味で特徴のない仏さまです。

何故際だつところがないのかと言いますと、それはありとある仏さまのすべての特徴というものをすべて円満に具えておられて、特にこれが際だっている、特にあれが優れているなどということがないからです。ですから功徳を特徴だというなら、そもそも阿弥陀仏の世界に功徳という言葉はないと言えるのでしょう。

もともと功徳ということを仏の特徴だと解釈するのが間違いではなかろうかと思えるのですが、では功徳とは何かと言えば、それは仏となる因となった正覚の一つひとつというか、内容であるということになるのではないかと、これは私の独断で、そう思います。

たとえば、応身仏である釈迦牟尼仏ならば、後の人々がその正覚を縁起というようになったのでしょうが、いわば観ずることの一つひとつが正しい智見となり、その一つひとつの智見が縁起、後の人がそう言ったのでしょうけれども、その因縁生起ということを証していたのであって、この縁起という智見が正覚であると言えるように思います。

親鸞聖人は、その釈迦牟尼仏、お釈迦さまが世に出られた所以として、阿弥陀さまのご本願を説くためであったとおっしゃっています。お釈迦さまが仏となられてはじめて仏と仏とにだけ相通じる智見として、阿弥陀さま、そのご本願成就ということが明らかになってきて、それをこそ説かれたのであると親鸞聖人はおっしゃるわけです。私たちに示して下さるわけです。

如来 (14)

本願念仏をいただくところに無量寿の如来との交際がある私ども衆生は、なるほど確かに一個人は自我というものに目覚める頃からか理知と冠する無明でもって生あり死ありと自縄自縛をするのであって、やがてはやれ生活が立ち行かぬであるとか、子供が言うことを聞かないであるとか、いろいろと細々としたことを苦にする。それはおおいに生死を分段し、苦である性質のないものを苦とすればよい。おおいにとはいかにも言い過ぎるようではあるけれども、懐かしくも思い出してみれば仏説無量寿経に選択の相を示して「令我於世 速成正覚、抜諸生死 勤苦之本。」(大谷派聖典p.13)とある。我々衆生が生死をつくり、勤苦するものであるから、その本を抜かしめんとあのご誓願は建立され、ご本願として成就されてある。ご本願が成就されてあるから、だから生死を分段し、苦を苦としても明るい。何というか、生き生きと生死を生かされ、生き生きと苦を作ってそれを克服し、また苦を作る。なるほど「証知生死即涅槃」(正信念仏偈 大谷派勤行本P.23)ということは如来のご信心をいただいて「生死即涅槃」であることを証知せしめられるということであるけれども、生死を証知せしめられるところに即ち涅槃である。煩悩即菩提もまたしかりで、煩悩を証知せしめられるところが即ち菩提。煩悩を断じるのでない、断じようとしても亀毛のごとく兎角のごときものは断じられない。断じるのでないところに涅槃を得るのである。「不断煩悩得涅槃」(正信念仏偈 大谷派勤行本P.9)、これには「能発一念喜愛心」といういわば条件がある。一念喜愛心の前に能発とある。能ということは衆生にあるのではなく如来にある。他力廻向によって一念に喜愛心をいただくのである。いただくというが、我々にいただく能力も何もないのであって、ただ他力のご回向によって、あくまでも如来のおはたらきによっていただく。如来とは自ら得た正覚の内容を説くことによって、聞く人に正覚を得しめる人(仏)、あるいはその説法、あるいはその説法の内容であるという意味でもあるのでないかと最初の方で言ったような気がするのですが、とりとめもなく話をさせていただいておりますと何を言ったかも定かでなくなってまいりまして申し訳のないことです。今現在説法なさる仏である阿弥陀さまを阿弥陀仏とも阿弥陀如来とももうします。何をもって阿弥陀さまを阿弥陀如来ともうしあげるのかといえば、阿弥陀さまが南無阿弥陀仏と回向して下さるところが如来であるのです。その阿弥陀さまのご回向をただいただくばかりの私の側からしてみれば、南無阿弥陀仏そのものが如来であるのです。

如来 (13)

はじめから往相・還相ということを言えばよいのかも知れませんが、南無(衆生)→阿弥陀仏(如来)が往相回向、阿弥陀仏(如来)→南無(衆生)が還相回向であって、つまりは本願念仏は如来と衆生との交際であるということができるかと思います。その交際ということは、つまりは相は二つながら体は一つの南無阿弥陀仏、本願念仏のおはたらきであって、この本願念仏というものの成就によって成り立つことであり、また逆に如来と衆生との交際が成り立つことが本願念仏の成就を証するのです。

南無阿弥陀仏によって実際にすくわれる人があり、すくわれた人が南無阿弥陀仏とはたらいていて下さることが、確かに阿弥陀さまのご本願が成就されてあることを明らかにするのですが、これは未だすくわれない衆生である私にとって明らかなこととなるということです。

阿弥陀さまのご本願が確かに成就されてあることを明らかに示していただいたならば、私という衆生はただもう本願念仏によって往生を遂げさせていただく者としてだけあるわけでして、そこにあらゆる衆生が平等であって、平等などということはこういうところにしかまずありません。絵に描いた平等はそこここに散らばって、あるいは大安売りをされているのでしょうが、まず本当のものはここにしかありません。如来のご回向の本願念仏を抜きにして、抜きにすることなどできないものをどうしたものか抜きにして、やれ朋だ同朋だと声高に言うても絵空事の中で絵空事を言うているだけのことです。如来との交際によってはじめて、同じくお念仏もうさせていただく朋、同朋ということがあるわけです。

阿弥陀さまの寿命は無量である。未来の衆生を仮定して、これは阿弥陀仏の寿命に限りがあればすくわれぬから阿弥陀さまの寿命は無量であるという。そんなことではないのでして、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を生む、実にいのちを生むのはいのちでありますが、南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を生む、如来が如来を生む、いのちがいのちを生むゆえに阿弥陀さまの寿命は無量であるのであって、円成の南無阿弥陀仏をもって如来と交際する衆生があるゆえに阿弥陀さまの寿命は無量であるのであって、光明もまたしかりであります。

如来 (12)

かたときも休むことなくこの私にはたらき続けていて下さる阿弥陀さまの本願念仏、私が疲れ果てて休んでいるときでもお酒でもいただいてへべれけになっているときでもはたらき続けていて下さるこの本願念仏というもの、これは法蔵菩薩さまの誓願に端を発し、言いようのないご苦労あってご本願成就のそのときに円成したものであると、一応はともうしますか、理屈を言えばともうしますか、そのように言うことができるかと思います。

私たち誰もが命のご縁をいただいたときには本願念仏というものはいわば完成していたものですから、実は私たちにはその発端も完成も知ることはできないのです。ある先達が円というもので説明をなさっていまして、円というものはコンパスでも使って描くときにはここが始まり、ここが終わりと分かるのですが、できあがっている円というものを見ると、どこが始まりかどこが終わりかも分からない。いや、分からないのではなくて、できあがってしまえば始まりも終わりもないのだとおっしゃっています。

この先達の円というものでの説明は、喩えのようでまったくの喩えでもなく、むしろ実際に近いのではなかろうかと思えるのです。始まりというものが私に分かるのなら私の方から阿弥陀仏に南無することもあり得ないことではありませんが、始まりもなく終わりもないのですから、あくまでも阿弥陀さまの南無阿弥陀仏の方がわたしというものにはたらいてくださって、摂取して下さるのです。それが他力廻向であり、それを私たちの側からはご信心をいただく、お念仏をいただくと言っているわけです。

円ということでもうしますと、あの本願成就の文の「至心回向」を「至心に回向したまえり」といただかない限り南無阿弥陀仏は決して円にはなりません。至心回向が衆生が回向するということであれば、回向するのも衆生、往生するのも衆生であって、そこにあるのは直線ですから、直線は決して円を描きません。如来が至心に回向して下さって、衆生が往生を遂げさせていただく、阿弥陀さまのお浄土に生まれさせていただくというところにはじめて南無阿弥陀仏という円が描かれてくるのです。

円融の至徳の南無阿弥陀仏という本願念仏の成就のところ往相の回向もあれば還相の回向もあるわけで、つまり如来と衆生との間にある南無する衆生を阿弥陀仏のお浄土に生まれさせて下さる方向というか、そのおはたらきが往相であって、阿弥陀如来が衆生に南無せよと招喚なさる方向性、そのおはたらきが還相であり、これはいわば南無→阿弥陀仏と阿弥陀仏→南無であって、相は二つながら体は一つの円成の南無阿弥陀仏、始まりも終わりもない南無阿弥陀仏であるわけです。

如来 (11)

命の誕生と共にあったのがお浄土の教え、本願念仏の教えであります。この本願念仏ということ、これは命の誕生と共にありながら実に長い間その本当の意義というものが明らかにされないまま、いわば疑網に覆蔽せられていたのですが、親鸞聖人にいたりましてその真実なる意義が明らかになりました。このことについてはすでにお話しさせていただいたのですが、繰り返しますと、如来が衆生に回向して下さるのが本願念仏であるということです。こういうことは親鸞聖人のお師匠にあたる法然上人も感得しておられて、その上で専修念仏ということをお示し下さったに違いないのですが、親鸞聖人は他力ということ、他力廻向ということをもってご自身が確認なさり、そのご確認が私たちに教えとして、いわば何故お念仏に依らなければならないのかということがより明らかになった教えとして伝えられたのです。

仏教というものはさまざまに分類されてきましたし、今も分類されていますが、そういう分類の一切はいわば学者さんのものでありまして、私たちがあえて分類するならば、仏教は二つしかないのです。これは頭で考える理屈を言うのですが、一つは私にはたらいて下さり、私をすくって下さる仏教であり、もう一つはそれ以外の仏教です。次には理屈でいうのでなく実際にはどういうことになるのかともうしますと、結局のところ仏教は一つしかないということになります。現に私というこの一人をすくうためにはたらいていて下さる本願念仏の教えがあるだけであり、それが仏教だということです。

一つ理屈を言いましたついでに喩えをもうしますと、北極点というのがありまして、私は行ったこともないのですが、ここでは360度どちらを向いても南ということになります。北の極点では西も東もなく、あるのは南だけです。本願念仏は私がどちらを向いていようと、阿弥陀さまに背を向けてばかりいようと、いつも私の正面を阿弥陀さまのお浄土にして下さるのであって、私がどこにいようと、南無しなさいよとはたらいて下さって、今私のいるその場所を北極点にして下さるのが本願念仏なのです。今私が阿弥陀さまに背を向けて褌一枚になって桶の水を身体に浴びせていても、間違いなく阿弥陀さまのお浄土に往生を遂げさせて下さる、その教えだけが仏教なのです。

如来 (10)

また話が横道にそれるのですが、お釈迦さまが仏となられて感得されたご自身に始まるのでない仏教の歴史というものは、仏説無量寿経として後にまとめられたのですが、五十三仏の歴史などというのはおとぎ話と同じ物語だ、作り話だとおっしゃる方もあります。よくお考えいただきたいのは、物語というのはものを語るのが物語だということで、作り話というのは、私たちが嘘の話を作り上げるようなものであったなら時間の移り変わりに淘汰されて消え去るのであって、そうではなく、五十三仏の話としてしか語りようのない原型があって作られている話だということです。

命とその命の救済の歴史と、言葉にすればそういう言い方しかないのでしょうが、そんな言葉では言い表しきれないものが伝統として現にあり、その物語るところが物語となり、象徴などという言葉での表現の技巧では表しきれないところを仏の話として語られるのが仏説無量寿経の五十三仏の話であります。

私たちは仏教はお釈迦さまによって開かれたと、教科書でも読んで勉強でもしてそこに書いてある通りに思っていまして、それは確かにそうに違いはないのですが、仏教というものはそんな教科書に書かれているような形骸のようなものではありません。私たちは教科書に書いてあることはまったく疑うこともなく信用してしまいますが、歴史であるとか、人間であるとか、命であるとか、そういうことについては本当のことは教科書のようなものには書きようがないのです。

理屈をいいますと、100パーセントともうしますか、全部すべて仏教が開かれたのはお釈迦さまによるのであるとするならば、お釈迦さまの成道以前の衆生はまったく救われることもなく、何を証することもなく命を終えていったということになります。お釈迦さまの成道がだいたい2500年前、人類の誕生は何年ほど前ですか、お釈迦さまの成道以前の衆生の方が圧倒的に多数です。

教科書に名前のあがらない民衆ともうしますか、衆生の一人一人が、命のご縁をいただいて、生きて、救われていくことによって証明された仏による仏になる教えの歴史が仏教でありまして、科学的に証明されないこと、教科書にないことは作り話だ、嘘だと言うまえに、教科書に名前があがることなどまずないのが私たちですから、こういうことはしっかりと問い直し、よくよく考えて、思いを新たにすべきことなのではないかと思います。

如来 (9)

虚偽を生むようであれば真実ではありませんし、虚偽から生まれる真実というものもありません。嘘から出た誠などという言い方がありまして、世間道、つまり凡夫の世界ではそういうこともあるのかも知れませんが、これは言い方を変えれば虚偽から誠が生まれることがある凡夫の世界、世間道というところは、だから虚偽の世界だと言うことができるわけです。

これはあくまでも喩えですが、冬になりまして雪が降る。朝目が覚めてみると一面雪景色で、真っ白だといいます。真っ白というのは白の他に何もないのを真っ白というのですが、雪景色が本当に真っ白かといえばそうではありません。それを真っ白だというのが凡夫の世界です。またたとえば、種があると言います。野菜の種でも花の種でも何でもよいのですが、種があるといいます。それはそこまで言いはしないけれども、種であるものがあるということ、仏教の言葉で言えば種として常住である、普通にいえば種として不変であるものがあるということになるなんですけれども、その種と言っているものを土に埋めればやがては芽が出てきます。芽が出た頃に土の中を見てみれば種だと言っていたものはないのです。種であるものなら、土の中に埋めても種であり続けなければ種であるとは言えないのですが、私たちは種があると言っています。そこに何らの問題もありません。むしろ芽が出るから種であるいっているわけですが、そういう世界が凡夫の世界であるわけです。

真っ白であるとか、種があるとか、こういうことは単に言葉遣いの問題ではなく、認識ともうしましょうか、事実のとらえ方の問題なのです。凡夫の世界、世間道というところはそれが間違っていたり、曖昧であったりするからこそ成り立っている世界です。常住、不変の種であるものはありませんし、真っ白な景色はありませんが、種であるものがあって、雪景色は真っ白であって何の問題もないところに凡夫の世界、世間道があります。

仏という字はもともと佛と書きます。この佛という字の旁の方の弗というのは打ち消しの意味だそうです。〜ではないという意味で、「不」と同じなのだそうです。ですから、仏というのはもともとは人でないという意味です。どういうふうに人でないのかと考えますと、内面の状態が変わる、心のあり方が人でないということになるかと思います。今もうしております人というのはつまりは凡夫ということですが、心のあり方、事実のとらえ方、認識と言えばいいのでしょうか、それが凡夫とは違うのが仏であるわけです。

今もうしました種の喩えは、ひどく簡単にしてしまったのですが、これは龍樹菩薩さまがおっしゃっていることでして、この龍樹菩薩というお方は「空」という思想でお釈迦さまの「縁起」ということを再認識なさった方です。大乗仏教というものが興るなかで、思想的中心となったのが龍樹菩薩さまの「空」の思想で、大乗仏教ともうしますのは簡単に言ってしまいますとお釈迦さまの仏教に戻った仏教です。つまりお釈迦さまが明らかにして下さった「縁起」ということと、誰もが仏になることができるのであるということを取り戻した仏教です。

この大乗の仏教が興るなかで、お釈迦さまの教えに戻るなかで再発見されたのがお浄土の教えです。再発見ということは、お釈迦さまが明らかにお示し下さっていたものが埋もれていて、ほとんど忘れられていたんだけれども、それがお釈迦さまの教えとして見いだされたということです。西方浄土の阿弥陀如来の教えというものが、お釈迦さまご出世の所以、本懐として見いだされたということです。

唯仏与仏の智見という言葉がありまして、「与」というのは与えるという意味ではなく「〜と」という意味です。仏と仏だけの智見ということですが、仏となられたお釈迦さまは、仏となられてはじめて自身に始まるのでない仏の歴史というものを感得されました。それは阿弥陀仏、世自在王仏をはじめとするいわゆる五十三仏の歴史であり、命の誕生と共にあった仏教の歴史です。

如来 (8)

実は口称の念仏でも諸行往生の教えでも、何ともうしますかまだ程度はよいのであって、いちばん罪なことは何かといえば、阿弥陀さまのご本願を疑うということです。私たち衆生といわれるものは因というものがつくれると思って因をつくろうとしますし、因をつくればつくったで必ず果を求めます。そもそも果を期待して因をつくるわけです。それで期待した果が得られないとなると、自分はそっちのけにして何も顧みることなく、何か他のものに責任をかぶせにかかります。

お念仏もうして果が得られないと思うと、教えの所為にする。何が南無阿弥陀仏だと、阿弥陀さまのご本願を疑う。挙げ句の果てには神も仏もあるもんかと言い出すわけで、神と仏とを一緒にするのもどうかとは思うのですが、何とも罪の深いことをしておきながら、自分の罪の深さには気がつかないのです。

最近のことでもないのですが、自分自身の姿に気づかされること、普段はまったく思いもしない自身の姿に気づくことが大切だとおっしゃる方が多いように思いますが、普段気がつかない自分自身の罪の深いことばかりしている姿に気がついても駄目なのです。先ほどから「至心回向」ということを衆生が如来に向かって回向するというふうに受けとめるという流れでお話をしているのですが、そうでなくて、如来が衆生に回向して下さるというふうにいただいていても、普段気がつかない自分自身の罪の深いことばかりしている姿に気がつくというようなことは、ある意味では大切なことであるかも知れませんが、駄目なのです。

自分自身の普段は気がつかない罪の深い姿に気がついても、ではそういう自分でない他の人間になれるのではないのです。いろいろと世間の人の話などを聞いておりますと、放蕩の限りを尽くした人がたとえば親に死なれたりして、そういうことをきっかけに心を入れかえて真人間に生まれ変わって、今では家業を継いで立派になっておられるなどということを耳にしたりしますが、それでも駄目なのです。

なぜ駄目なのかともうしますと、これは親鸞聖人が教行信証の行巻に「いわゆる凡夫人天の諸善・人天の果報、もしは因・もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。」と確認されてある通り、人間というものに真実の功徳など微塵もないからです。あるのはみな虚偽、普通の読み方をしますと「きょぎ」となりますが、あるのはみな虚偽でしかなく、真実の功徳など何一つないのです。

功徳ということは、まさしく仏となる因、仏となる種とでも言えばいいのでしょうが、私たちの思う功徳というものすべて虚偽であり、真実の功徳、それによってこそ本当に仏とならせていただくことができるという真実の功徳というものは私たちのところには微塵もないのです。

では真実の功徳とは何であるのか。真実の功徳とはどこにあるのか。私たちがいかに努力をしても持ち得ないし、いわゆる心を入れかえて生まれ変わったとしても持ち得ない真実の功徳というものは、いったいどういうものであるのかということになります。

もうもうすまでもないことかと思いますが、真実の功徳というものは如来の回向にあるのです。これは先ほどももうしたことですが、親鸞聖人は本願成就の文の「至心回向」を至心に回向したまえりと読まれました。そこにはじめて如来が衆生に真実なる信楽をもって回向して下さるのであるという、つまりは他力のおはたらきということが明らかになったのですが、真実なる功徳があるのはこの他力廻向の仏である阿弥陀さまのところにあるのです。

如来 (7)

さて、他力廻向の本願念仏ということなのですが、私は本願念仏といわれるそれ自体が如来であるといただいておりまして、また、回向ということも少なくとも真宗では他力による回思向道の他にないわけでして、他力廻向の本願念仏という言い方は、実は意味が幾重かに重複しているのです。重複しているのですが、他力廻向の本願念仏という方がお伝えしたいことが何かということが分かりやすいかと思いまして、そういう言い方をしております。

話が横道にそれる前にもうしましたように、親鸞聖人は本願成就の文の「至心回向」を「至心に回向したまえり」と読まれ、如来が至心に、真実に回向して下さるのであるということを私たちに明確にお示し下さいました。衆生が如来に向かって至心に回向するのでなく、如来が衆生に至心に回向して下さるのである。ここに起点の違いともうしますか、方向の違いともうしますか、決定的な違いがあるわけです。

衆生が南無阿弥陀仏をもって如来に回向するということであれば、一遍よりも百遍の方がよいのでしょうし、百遍よりは一万遍、一万遍よりは百万遍の方がよいということになるのでしょう。お念仏もうす遍数ということが問題になりますと、それはいわゆる口称の念仏です。口称の念仏は口称の念仏で結構だとは思うのですが、やはり仏説無量寿経のお心ではありません。

私たちが衆生といわれる所以はいろいろと数え上げられないほどもあるのでしょうが、たとえば、南無阿弥陀仏と一日に百万遍お念仏もうして、けれどもそれでも「即得往生」ということが実感できないということも衆生である所以の一つだと思います。「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転。」と説かれてあるけれども、即得往生、住不退転ということが実感できないとなると、どういうことになるのでしょう。

善行といわれるさまざまなものも修する必要があるのでないか、できるだけの善行を修するなかでお念仏ももうすのがいいのでないか、そんなふうなことになるのではないでしょうか。専修念仏の教えを根本にしながら、気がつけば諸行往生の教えにしてしまっているというのも、衆生の衆生たる所以ではないかと思います。

如来 (6)

変化ともうしますと、お釈迦さまのお弟子さま方の数がどんどん増えていって教団が形成されたのですが、この教団の形成ということに伴って発生したのが戒律です。もともと戒は在家者の道徳規範、律は出家者の生活規範だったようですが、だんだんと戒と律との区別がなくなったようです。区別がなくなっても、戒律とは道徳規範・生活規範です。

この戒律をまもること、特にもともとの律の方ですが、これをまもることが後に「行」とされることがらの起こりではなかったのかと思うわけです。お釈迦さまの入滅後に、お釈迦さまご在世当時の出家者・在家者がまもっていた戒律をまもることにはそれなりの意義があるのでしょう。けれども、道徳規範・生活規範であるものが正覚を得る道となるとは、私にはどうしても考えられません。

事実、最終的に戒律について厳格な解釈をする仏教では在家者は悟りを得ることができないと明確に言うようになりましたし、お釈迦さまの教えを学び、教えとしての「行」を行ずること自体を目的とするようになり、証というものは得られなくてもよいということになりました。教と行だけがあり証がない、悟りが得られなくてもよいということが意味するのは、それはもはや仏教ではないということなのではないのでしょうか。

また、寒中に裸同様の姿で水浴びをしたり滝に打たれたりすることは、戒律に基づくものでもなく、そもそも「行」のなかでも苦行になるのでしょうから、苦行を否定なさったお釈迦さまの仏教とは一切関係のない「修行」であって、仏教の変化とも言えないものであり、仏教でない教えに仏教という名前を冠しただけのものです。

このような結論めいたことを言うために私の独断に基づく考えを長々とお話ししたわけですが、「行」ということについての私の独断に頷けない方もおられると思います。そういう方は「行」あるいは「修行」を取り入れて、それを証を得るための必須条件とする教えは仏教とは言えないという結論にも当然頷けないことでしょう。

しかし、「行」や、あるいは「修行」が仏となるについて必要な功徳を得るために必須であるとしても、本願念仏はあらゆる功徳の円融であり、また、万行の円備であるわけでして、仏となるについて必要な功徳を得るためのあらゆる「行」を法蔵菩薩さまが修しておいて下さるのであり、そこにあらゆる功徳が備わって阿弥陀仏となっていて下さるわけです。

「行」が仏となるについて必要な功徳を得るために必須であるとしても、出家したり、「行」を行じたりすることができない人にとっては本願念仏をおいてほかに証を得る道はないということになります。ここにおいでの皆さんがそれぞれ何をなさってらっしゃる方なのかは知らないのですが、少なくとも出家して、「行」を行じる身である方は、ここで私の話など聞いている暇などないはずです。

私は「行」ということが仏教の根本的な教えであるとは思えないのですが、ここにいらっしゃる方の中に「行」を行ずることこそが仏教であるとお考えになる方がいらっしゃるとしても、その方にとっても本願念仏の他に仏とならせていただく道はないということを確認しいていただきたいと思います。どうも横道にそれた話が長くなりすぎまして、申し訳ないのですが、このこと一つ、本願念仏の他に仏とならせていただく道はないということだけはご確認いただきたいと存じます。

如来 (5)

さて、皆さんに一番お伝えしたい他力廻向の本願念仏ということについてお話しする前に横道にそれるのですが、「行」ということについて、これは私なりのいわば独断による解釈になるのですが、先ほど申しました「お釈迦さま一代の教が円融の至徳であり万行の円備である本願念仏にしくなし」と親鸞聖人がおっしゃることに関係しますので、少しお話ししておこうと思います。

真宗で「行」といいますとまず「大行」であり、阿弥陀さまの本願念仏をいうのですが、私たち教えをいただく者の側からもうしますと、お念仏もうさせていただくことだけがただ一つの「行」ということになります。その「行」にも正定の業と助業とがあるのですが、その他の「行」はすべて「雑行」とされます。

聖道門ともうしますか、自力の教えともうしますか、真宗以外の教えではさまざまな「行」があるようでして、たとえば外国の方が仏教に関心を持たれるのはたいていが座禅を行ずる教えとして仏教に関心を持たれます。この座禅ということだけならまだ分かるのですが、禅宗各派にはそれぞれ座禅以外にも「行」があるようでして、これが分かりません。

テレビのニュースなどで時々僧侶が「修行」している映像が流れたりしまして、たとえば寒中に褌一枚の姿で桶の水を何度も身体に浴びせたり、白衣一枚の姿で滝に打たれたりなさっていることが多いのですが、あれも分かりません。

それぞれの宗派のそれぞれの教えとしてそういった「行」を修することがあるのでしょうが、お釈迦さまは「観想」によって正覚を得られたのであり、お釈迦さまの初転法輪を聞かれた五人の比丘の方たちは聞法によって正覚を得られたのですから、少なくとも仏教の原型ともうしますか、仏教の成立します最初においては観想と聞法が正覚をもたらしたのです。そこには後のほとんどの仏教が取り入れている「行」は一切ありません。

さまざまな「行」を取り入れることを仏教の発展だというなら、お釈迦さまの仏教がもっとも発展していない仏教だということになります。ですから、仏教に変化というものはあるのでしょうが、発展ということはなく、「行」というものは仏教が変化していく中で教えに取り入れられたと考えるべきでないかと思います。

如来 (4)

さて、仏説無量寿経というお経は上巻・下巻と分かれているのですが、上巻に四十八願が説かれてありまして、その中の第十八願は次の通りです。

たとい我、佛を得んに、十方衆生、心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く。(大谷派「真宗聖典P.18)

次に下巻の最初のところにこのようなことが説かれてあります。本願成就文といわれるところです。

仏、阿難に告げたまわく、「それ衆生ありてかの国に生ずれば、みなことごとく正定の聚に住す。所以は何ん。かの仏国の中には、もろもろの邪聚および不定聚なければなり。十方恒沙の諸仏如来、みな共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なることを讃歎したまう。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。心を至し回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得て不退転に住す。唯五逆と誹謗正法とを除く。」(大谷派「真宗聖典P.44)

ここに挙げました第十八願ならびに本願成就の文をいただくについては、親鸞聖人が教行信証の信巻に確認しておかれる文章が大変参考になるかと思います。
以下の通りです。

「欲生」と言うは、すなわちこれ如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。誠にこれ、大小・凡聖・定散・自力の回向にあらず。かるがゆえに「不回向」と名づくるなり。しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。このゆえに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として、大悲心を成就することを得たまえるがゆえに。利他真実の欲生心をもって諸有海に回施したまえり。欲生はすなわちこれ回向心なり。これすなわち大悲心なるがゆえに、疑蓋雑わることなし。
ここをもって本願の欲生心成就の文、
『経』(大経)に言わく、至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと。唯五逆と誹謗正法とを除く、と。(大谷派「真宗聖典P.133)

本願成就文の「心を至し回向したまえり。」というところは、もともと漢文では「至心廻向」となっていまして、これを普通に読み下せば「回向したまへり」とはなりません。事実親鸞聖人以前の先達方も「至心に回向す」と読んでおられましたし、現在でも浄土真宗以外ではそのように読まれるようです。この部分の「至心回向」を「至心に回向す」と読めば、至心に回向するのは衆生です。「至心に回向したまえり」と読めば至心に回向するのは如来です。

親鸞聖人は第十八願の「我が国に生まれんと欲うて」(欲生我国)の「欲生」を「如来、諸有の群生を招喚したまうの勅命なり。」といただいておられます。そして、「すなわち真実の信楽をもって欲生の体とするなり。」とある通り、「利他真実の欲生心」の体が至心、つまり真実の信楽であるといただいておられます。

至心・信楽・欲生ということがすべて如来のお心とそのお心の体であるということによって、本願成就文の「至心回向」を如来が至心に回向したまうのであると読まれ、微塵界の有情であり、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心も清浄の回向心もない衆生が如来に回向するのでなく、如来が衆生に至心に回向したまうのであることを明らかにして下さったのでした。

衆生が至心に回向するとは読めなかった、如来が至心、つまり真実なる信楽を体とする欲生心をもって衆生に回向したまうのであり、回思向道して下さるのであるとしか読めなかったという方が正しい言い方なのでしょう。

如来 (3)

これはまた別の話になるのですが、教行信証総序の文に「大聖一代の教、この徳海にしくなし」という文章がありまして、「この徳海」と申されますのは円融至徳の嘉号、つまり南無阿弥陀仏という本願念仏を指すわけで、こういうことは親鸞聖人は「竊かに以みれば」という言葉をつけておっしゃるのですが、何をもってお釈迦さま一代の教が円融の至徳であり万行の円備である本願念仏にしくなしとおっしゃるのか、これはおおいに考慮されるべきことであろうと思うのです。

聖道門の教えとされるお経のなかに三時の教え、正法・像法・末法という教えを説いているものがありまして、親鸞聖人は五十二歳の時に「已にもって末法に入りて六百八十三歳なり」と書いておられます。ちょうどこの親鸞聖人五十二歳の年には既存の仏教の側からの働きかけで二度目の念仏禁止令というものが出されたようで、そういうことから容易に想像できるほどまでに聖道の諸教を宗とする既存仏教からは実際に行証というものが廃れていたようです。

既存仏教の行証は久しく廃れていたのですが、しかし、本願念仏の教えというものはますます広く民衆にとけ込み、正法・像法・末法という聖道門に教えにある時代の特長などというものをまったく感じさせないほどにその証道はいよいよ盛んになっていました。

そういう現実があり、その現実から浄土の真宗の教えこそがお釈迦さまご出世のゆえんであると親鸞聖人は結論なさったのではなく、お釈迦さまを如来といただく、釈迦如来といただくところから浄土の真宗の教えこそが真実の教えであると親鸞聖人は感得なさった。そうして、現実をみれば浄土の真宗の教えこそが真実の教えであることは明らかであった、現実がご自身の感得なさったことを裏付けていた。そういうことであったのだろうと思うわけです。

如来 (2)

お釈迦さまの説法を聞いた人、具体的にはコンダンニャが正覚を得たことを確認してご自身を「如来」とおっしゃったのですから、如来とは自ら得た正覚の内容を説くことによって、聞く人に正覚を得しめる人(仏)、あるいはその説法、あるいはその説法の内容という意味であると言えます。そういう意味合いを付け加えることができると思います。

そうしますと、「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」と親鸞聖人がおっしゃるのは、お釈迦さまが世に出られたゆえんはただ阿弥陀さまの本願の世界を説くためであったという一般的な解釈では収まりきらないということになるのではないでしょうか。

もちろん「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」という文章の解釈としては十分なのですが、お釈迦さまが世に出られたゆえんは、阿弥陀さまのご本願の生起本末を聞き、本願念仏をいただいて、お念仏もうすということによってあらゆる衆生に正覚を得てもらうためであるということがそこに込められてあるということが言えると思います。

自分の説法を聞いた人が正覚を得たことを確かめてご自身のことをはじめて「如来」とおっしゃったお釈迦さまが、この娑婆世界にまさしく如来としておいで下さったのは、五濁悪世に命のご縁をいただいた私たちが、仏説無量寿経にある阿弥陀仏のご本願の生起本末をお聞きして、つまり聞法して、本願念仏だけがすくわれる道であることを信知して、お念仏もうして、阿弥陀さまのいのちに帰らせていただくためであったということを、親鸞聖人はおっしゃっているのだと私はいただいているのです。

如来 (1)

如来所以興出世   唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海   応信如来如実言
(正信念仏偈 大谷派勤行本P.8)

親鸞聖人はここでお釈迦さまを「如来」とおっしゃっています。教学研究所編の解説本では、ここでいわれる「如来」は「釈尊や三世の諸仏をさす」とありまして、広義では「私たちに聞かれる仏という名それ自体が、如来である」とあります。

釈迦如来楞伽山   為衆告命南天竺
龍樹大士出於世   悉能摧破有無見
(正信念仏偈 大谷派勤行本P.15)

ここでははっきりと「釈迦如来」とおっしゃっていますので分かりやすいのですが、ともかく、親鸞聖人はお釈迦さまを「如来」としておられたわけで、「如来所以興出世」の如来についての教学研究所編「正信念仏偈」の説明はなるほどお説ごもっともなのですが、「如来所以興出世」の「如来」は普通に解釈すればお釈迦さまのことを如来とおっしゃっているということになると思います。

ところで、お釈迦さまのことを一番最初に「如来」とおっしゃったのはどなただったのかと申しますと、実はお釈迦さまご自身が一番最初に「如来」とおっしゃったのです。ここのところは大変興味深いところです。

お釈迦さまの最初の説法を初転法輪と申しまして、これは六年間の苦行を共にした五人の比丘に対してお釈迦さまが自ら得た正覚の内容を説かれたのですが、このときの説法を聞いた五人の比丘の一人、コンダンニャという名前だったようですが、この人がすぐにお釈迦さまと同様の正覚を得たのです。

すぐにということですので、なんらかの行を修したということではなく、お釈迦さまの説かれた法を聞くこと、つまり聞法によってこのコンダンニャという人は正覚を得たということになります。お釈迦さまはこのコンダンニャという人が正覚を得たことを確認なさって、そこではじめてご自身のことを「如来」とおっしゃったのです。

「如来」というのは、如は真如・一如のことでして、つまり真実の世界、そこから衆生のもとに来るものという意です。一般的な解説などではそういうふうに説明されているのですが、お釈迦さまがご自身を「如来」とおっしゃった経緯をふまえると、少し変わった意味合いが付け加えられるのではないかと思います。

四苦と法印-10 (3/16)

今日の私たちは、いろんなことについての自分の受けとめ方が正しいのかどうかを問い直すことをしなくなっていて、すでに縁起という道理がわからなくなって生老病死だけでなく一切がみな苦であるとしている、その自分の有り様が見えなくなっています。

それは、目に見えて手で触れることができるものは確かなものであって、自分は経験すらしていなくても証明されたことは信じるという科学的なものの見方が染みついてしまっているからだと思うのです。

重力というのですか、そういう力の働きがあって、タバコの箱を持ち上げておいて手を離すと落ちます。持ち上げておいて手を離すとタバコの箱が落ちることは科学が証明しました。だから目に見えなくても重力はあると、働いていると私たちは思っています。

重力と同じではないのですが、目には見えないし、手で触れることもできないけれども、阿弥陀さまのおはたらきがある。むしろ、本当にあると言えるのは阿弥陀さまのおはたらきだけである。南無阿弥陀仏と具体的に現れていて下さる如来のご信心だけが、本当にあって、それこそが本当に信ずべきものである。

これは何によって証明されるのか。何によって証明されれば私たちは信じるのでしょうかと、そういうふうに今の私たちは考えがちなのでしょう。仏教は誰かが証明したことを私が信じるということではありません。阿弥陀さまがすでに南無阿弥陀仏となっておられる、これは証明といえば証明なのでしょうが、その阿弥陀さまのご信心を、私が信じるのでなく、阿弥陀さまからいただくのです。

聞というは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを聞という。私たちはひたすらに聴聞し、ただ南無阿弥陀仏とお念仏もうして仏とならせていただくのである。仏教はこのこと一つを教えているのです。

四苦と法印-9 (3/15)

あるいはまた、お釈迦さまを医王とお呼びすることがありまして、医王というのは言ってみれば医者の中の王様、治せない病気はないお医者様というような意味のお釈迦さまの別の言い方です。

これも不生であるがゆえに不病とでも言えばいいのでしょうか、病というのもいただくばかりのご縁のひとつであるという道理をわきまえるなら、決してそれが苦にはならないということをいうのであって、病気の症状がなくなるということを言うのではありません。

お釈迦さまの伝記である仏伝によりますと、お釈迦さまはひどい下痢の症状の出る病気で亡くなられました。亡くなったというのもいかにも道理に反している私たちの言い方ですが、病気というか、症状がなくなるのではないのです。

お釈迦さまは病気とか症状が苦にならなくなる道理を説くことをもって医王と呼ばれたのですが、科学的なものの見方が染みついていると、お医者様のなかの王様だからどんな病気でも治すんだと自分が勝手に解釈をしてしまって、そんなことはあり得ないと言い出します。

自分の解釈の仕方が間違っているかどうかを問題にすることなく、仏教はあり得ないことを言うものだと決めつけてしまうわけで、こういうことはよく考え直さなければならないことだと思います。

科学的なものの見方というのは、私たちが道理がわからなくなることを助長して、妄念のなかにさらなる妄念を産み出すもととなります。見えるものだけがあるものではないし、経験したからといってすべてがわかるわけではないということをさらにわからなくさせます。

(続きます)

四苦と法印-8 (3/14)

南無阿弥陀仏が実際にはたらいていて下さって、一切をみな苦としてしまう私を、決して自分の力ではすくわれることがない衆生をこそすくって下さる。こういうことが、裏返しにとでも言えばいいのでしょうか、一切皆苦という法印の、言葉には出ていない内実であると思います。

これはもう余談になりますが、たとえば、死ぬということ、死ということについて、よく死んだことがないからわからないとおっしゃる方がありまして、今日の私たちが考え直してみる必要のあることを表している言い方です。少なくとも仏教的な観点からの言葉ではありません。

実際に目に見え、手で触れることができるものは確かなものであって、そうでないものは確かなものではないというふうに考えるのは、その根本に科学的なものの見方があるからです。それが染みついているから、目に見え、手で触れることができるものは確かなものだと思ってしまうのです。

自分が実際に経験したことがなくても、他人様が実体験とか理論によって証明なさったことは信じるのが今の私たちです。生きている人のなかに死んだことがある人はいないから、死ぬということはわからないとおっしゃるような方も、宇宙の始まりはこうだと、そういうことをおっしゃいます。

(続きます)

四苦と法印-7 (3/13)

悟りの世界、悟りによって観るあらゆるものごとは、未だ悟りを獲ないものが実際に確実なものとしてあると見るものすべてが寂滅していて、ご縁そのものとしてあり、すべてが静まっている。

けれども、ご縁に因って道理がわからなくなっているこの私、悟りを獲られないこの私は、常にあらゆるものを苦としてしまう。これが一切皆苦ということであって、一切皆苦という法印は、道理がわからないこと、悟りが獲られないことを踏まえているわけです。

このあたりが先ほどもうしました興味深いところでして、一切が苦であるところにすくいはない。何もかもを苦としてしまい、何もかもが苦でしかないならば、そこにどんなすくいがあるというのでしょう。

仏教は釈迦牟尼仏、お釈迦さまの教えであり、同時に仏になる教えである。仏になるということは悟りを得るということであり、すくわれるということであるのに、一切をみな苦としてしまって、すくいがないのが仏教の法印だというのです。

この一切皆苦という法印が法印としてあるのは、すでに阿弥陀さまのおはたらきによるすくいがあるということだと私はいただいています。

(続きます)

四苦と法印-6 (3/12)

三法印という時には諸法無我と諸行無常、もうひとつは一切皆苦ではなくて涅槃寂静という三つで三法印といいます。法印を四つとするときには一切皆苦があるのですが、三法印というときには一切皆苦はなくて、諸法無我と諸行無常と涅槃寂静が法印なのです。これは興味深いことだと思うのですが、どう興味深いかはひとまずおいておくことにします。

涅槃寂静ということ、これは簡単に言いますと、諸法無我、諸行無常ということが本当にわかって悟りというものが獲られるならば、その悟り、悟りの世界とか、悟りによって観るならばと言う方がわかりやすいかも知れませんが、悟りとはご縁がご縁そのものであって、ご縁がご縁としてそのままにあり、何かが生まれることも何かが変わることも何かがなくなることもなく、何ものをも苦とすることがないから寂静であるということです。

涅槃というのは普通に言えば悟りということですが、この悟りというのは、生老病死が苦である私にとって、どうしても得られないのです。

言ってみれば道理がわからなくなることもご縁に因るわけで、ご縁に因って道理がわからなくなっている私には、悟りは得られないままである。

得られないままだから生老病死が苦でしかない。生老病死だけでなくて毎日の暮らしの中の何もかもが苦でしかない。一切が苦である。

(続きます)

四苦と法印-5 (3/11)

お釈迦さまは、悟りを得てまず最初に説法をなされたときに不死の法を説くとおっしゃったそうです。不死の法といいますと死なない法、いつまでも生きられる法だと私たちは思ってしまうのですが、そういうことではなくて、不生であるから不死であるということを説くとおっしゃったのです。

すでにご縁をいただいて生まれた私たちは、道理がわからなくなっています。インドから伝わった仏典などを当時の中国語に翻訳する時、直訳すると不死の法となる言葉があって、それがわからないから甘露の法、さらには妙法と当時の中国のお坊さんは言葉を変えられたそうです。

あらゆるものごとがご縁に因って起こり、成り立っていて、不生であるから不死である。お釈迦さまが明らかにして下さったそういう道理は、今の私たちもわからなくなっているのですが、インドから中国へ伝わった時点でも、もうわからなくなっていました。

道理がわからなくなると一切皆苦となります。一切、すべてがみな苦である。これも先ほどもうしました法印のひとつです。繰り返しになりますが、この考え方がなければ仏教ではないというのが法印です。

法印は一般的には四法印といって四つあるとするのですが、今もうしました一切皆苦というのを入れずに三法印という場合もあります。

(続きます)

四苦と法印-4 (3/10)

すべてご縁をいただくばかりであるのに、若さにとらわれ執着すると老いることが苦になります。健康であることに執着してとらわれると病むことが苦になります。まだ若くてもこれからどんどん年取っていくと思うと、若いうちからもう老ということが苦になり、健康であっても病が苦になります。

同じような言い方をしますと、死んでいなくても死が苦になるということになりますが、少しこれは違ってくるんだと思います。

死んでいないのに死が苦になるというのではなく、私が生まれる前からあって、生まれたら私になる何かがあって、私が生まれたのでないのに、私が生まれたという思いにとらわれ、執着するから死が苦になる。確かに私として生まれたこの私が、私の思いに反して死ななければならないということが苦になるということだと思います。

生まれていないものは死にません。不生であるがゆえに不死である。それが道理です。生まれていないものは老いないし病まないし、死なない。ところが、その道理がわからなくなっています。私が私として確かに生まれたと、いつの頃からか、思っていると気がつかないままに道理に反することを思っています。

(続きます)

四苦と法印-3 (3/9)

生老病死ということをいいますが、これは四苦と言われるもので、無我であって、無常であるから変わる。その変わるということのなかに生もあり、老もあり、病もあって死もあるということです。

私がいて、その私が変わるのではなくて、生老病死と変わるのを私と言っているのです。生ということについては、ここにいるみんながすでにそのご縁をいただいています。

次は老ですが、若いからといって病というご縁はいただかないということも、老いているから必ず病気になるということもないわけです。死ということも、老いたり病んだりしなくても、生まれてすぐに死というご縁をいただくこともありますし、生の前に、生まれる前に死というご縁をいただくこともあるわけです。

ですから生老病死は順序を言うのではなくて、生も老も病も死も、それらがすべてご縁に因るのだということを言うわけです。

先ほど生老病死は四苦と言われると申しましたが、それらが苦であるのは、私が生まれたという思いに執着する、あるいは若さに執着する、健康であることに執着する、そういうことに執着する、とらわれるところに生も老も病も死もみんな苦になってしまうのです。

生ということ、あるいは老も病も、死ということも、そのこと自体に苦という性質があるのではないのです。それ自体に苦という性質がないことを私が苦としてしまうのです。

(続きます)

四苦と法印-2 (3/8)

すべてが無我であって、すべてご縁に因っています。縁起であり、無我であるから、無常です。常であることがないわけです。いただくご縁のままに変わっていきます。諸行無常という言葉はご存じかと思いますが、これも法印のひとつです。

この考え方がなければ仏教とは言えないという仏教の根本的な考え方である法印のひとつであって、芸術とか感覚というところで言うことではありません。無我であって、だから、だからと言えると思いますが、だから無常であるという事実をいうのです。

私というもの、人間というもの、すべて無我であって無常である。無常であるということは常であることがない、ずっとそのままで変わりなく続くということがないということです。

今ここに若い方もおられますし、お年を召した方もおられますが、オギャーと産声をあげた時すでにその姿だったという方はおられないわけで、それぞれの年月の間にそれぞれのご縁をいただかれて、いまここにそれぞれのお姿でおられるわけです。

無常であるということは、いただくご縁に因って変わるということでもあるわけですが、変わるということのなかには、例えば老いるということもあり、病むということもあります。

(続きます)

四苦と法印-1 (3/7)

私が生まれる前からあって、生まれたら私になる何かというようなものは無いというお話をしたことがありますが、それを無我といいます。

正しくは諸法無我と言いますが、この無我といいますのは、この考え方がなければ仏教とは言えないという法印といわれるものの一つです。

私が生まれる前からあって生まれたら私になる何かはない、それが無我ということのもともとの意味です。無我ということでよく耳にしますのは、無我の境地というような言い方ですが、これは仏教で言う無我とは別のものです。

あらゆるいのちあるものに生まれる前からあって生まれたらそれになる何かはないというのは、いのちあるものの実際を言うことでして、それは境地ではありません。

縁起であって、無我である。あらゆるものごとがご縁に因って起こり成り立っています。

ご縁に因らないものがあると仮定すれば、我というものはあるかも知れないけれども、そのご縁に因らないものがあるとする仮定が事実ではないわけですから、我はありません。

諸法無我という諸法というのは、あらゆるものごと、すべてということです。

(続きます)

生活-1-6 (3/1)

悪をつくり、罪を重ねるばかりの生活の中でお念仏もうすのではやはり自分が先に立ちます。

そうではなくて、我が身の罪のふかき事をうちすてお念仏もうすというなかに、言い方がおかしくて誤解を招くかも知れませんが、安心して悪をつくり罪を重ねるばかりの生活をすることができるのです。

私の生活は悪をつくるばかりであり、悪をつくらなければ生活ができない。罪のうえに罪を重ねるのが私たちの生活である。けれども、だからこそ阿弥陀さまはこの私を目当てにはたらいて下さる。

だから、自分で自分を悪人だ、いや少しは善いところもあるなどと斟酌して、お念仏を道具にするのではなくて、阿弥陀さまのおはたらきであるお念仏をいただいて、お念仏もうさせていただくなかで安心して生活させていただくのです。

生活の中でお念仏もうすところにある安心は、かりそめの安心です。壊れます。本当の安心ではありません。

本当の安心は大安慰というのです。これは阿弥陀さまという仏さまの別の言い方でもあります。阿弥陀さまそのものである大安慰こそが本当の安心であって、私たちは本当の安心の下でいのちのご縁の尽きるまで生活させていただかなければならないのです。

生活-1-5 (2/28)

自分で自分を裁くというか、自分を自分で批判するというか、それは必ず自分を許すためであると言えるのではないでしょうか。

それだけでも悪であるに違いないのに、仏さまを道具にするというか利用するとなると、これはさらに深い悪であるといえるでしょう。

そういうことばかりをしていて、いわば罪のうえに普段自分では気がつかない罪を重ねているのが凡夫である私です。

お文に「我が身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて」という一節があります。

反省しても、懺悔しても駄目だということでもあると言えるのではないかと思います。

自分が罪が深いと気づかされると、すぐにそのうえに罪を重ねることしかできないから、反省しても懺悔しても駄目だということです。

「我が身の罪のふかき事をば、うちすて、仏にまかせまいらせて」ということは、そもそも何が善で何が悪かも分からないこの私のすべてを阿弥陀さまにおまかせするということだと言えると思います。

自分自身を斟酌することはなかなかうちすてることはできないのでしょうが、それをそのまま阿弥陀さまにおまかせするのです。

(続きます)

生活-1-4 (2/27)

私たちはときどき、反省をします。自分を省みて、嘆いたり、自分を戒めたり、懺悔のようなことをしてみたりします。

こんなことではいけないなぁと思うわけですが、そう思う時も心のどこかに自分を褒めるような気持ちがあるのではないでしょうか。

こんなことを思うのは私だけかも知れませんが、自分を省みて、懺悔している自分を仏さまは褒めて下さるだろうと思っている、そういうことはないでしょうか。

意地の悪いことを言うようですが、そういうところがあるのが人間だと思うのです。先ほど申しました十悪のなかに両舌というのがありまして、これはいわゆる二枚舌です。あちらにはこう言ってこちらにはああ言う。

どちらにも同じことを言うとどちらかに差し障りがあるから、違うことを言ってどちらにも差し障りのないようにする。両舌というのは、そんなふうなことだと思います。

仏さまには私はこんな悪人ですと言って懺悔のようなことをして、自分には仏さまに懺悔したんだから許して下さる、許すだけでなくて褒めて下さるに違いないと言っている。私はこれも両舌の一種だと思います。

心の奥底の方のどこかで、両舌を使って仏さまを自分を慰める道具にする。それが人間の、凡夫といわれる私の実際の姿だと思います。

(続きます)

生活-1-3 (2/26)

私たちが生活をするということは、それは同時に悪をつくるということである。これは仏ではない凡夫である私たちにはおしなべて言えることではないかと思います。

だから、と言えると思いますが、だから阿弥陀さまの弘誓があるのです。

あらゆる人をすくわずにはおかないという願い、誓いが実にこの私一人のためにはたらいてくださるのは、私が阿弥陀さまのおはたらきなくしては決して救われない凡夫だからなのです。

一生の間悪をつくる他にない者であるから、だから阿弥陀さまは私を目当てにおはたらき下さる。もし私が本当に聖者といえるような人間だとすれば、阿弥陀さまのおはたらきがなくてもよいわけです。

実際にはそんな聖者といわれるような人間ではありませんから、こちらが阿弥陀さまのおはたらきなんて要らないと思っても、阿弥陀さまはこの私を目当てにはたらいて下さるのです。

(続きます)

生活-1-2 (2/25)

少なくとも私が自分自身をふり返ってみますと、法律で罰せられるようなことは、今までは道路交通法違反くらいですが、十悪と言われることばかりしてきていますし、今もしています。

それが悪だと分かっていても、例えば貪欲、必要以上に欲をむさぼるということですが、やめようと思ってもやめられません。パソコンが2台あるのに新しいのが欲しいとか、ね。

これは自分が感じることなんですが、少なくとも私の場合、生活するということと悪をつくるということは同じ意味です。

これも私が経験から思うことなんですが、人間というものの考えること、すること、そう大して変わらない。何か天才的な発明でもする人なら変わりがあるかも知れませんが、普通はそれほど変わらない。ですから皆さんもご自身のことを振り返られたら、やはり悪をつくっておられるんだと思います。

悪人ということは、他人に対して「あなたは悪人だ」と言うことではなくて、自身を省みて、確かにそうだ、自分は悪人だと思い知る、そういう種類のことです。

ですから、自分は悪人ではない、悪をつくってはいないとおっしゃる方もおられるかも知れませんが、そういう方は、例えばこのあたりは田舎ですから夏場に蚊がたくさんいますけれども、畑仕事でもしながら腕をさしている蚊をパチッと叩いたということに気づいていないだけではないかと思ったりします。

(続きます)

生活-1-1 (2/24)

正信偈に「一生造悪値弘誓」というのがあります。一生造悪値弘誓 至安養界証妙果というのは、一生のあいだ悪をつくった者でも阿弥陀さまの弘誓にお遇いしてご信心をいただくなら、心を安らかにして身を養う安養界、これは阿弥陀さまのお浄土ですね、安養界にいたって仏とならせていただくという妙果を証するのだと道綽禅師がおっしゃっていると、そういうふうに親鸞聖人が言っておられるのです。

一生の間悪をつくる。それはいったいどういう人なのかといえば、これは私、いわゆる凡夫と言われる人です。悪をつくるというのは、何も人を傷つけたり人のものを盗んだりするようなことだけではないんです。もちろん人を傷つけたり人のものを盗んだりするのは悪ですが、それだけが悪ではないのです。

「十悪」という言葉をお聞きになったことがあるかも知れません。十種類の悪を言うわけで、いちいちは申しませんが、この中には殺生とか偸盗、盗むことですね、こういう法律で罰せられるようなものもありますが、悪口(あっく)、わるくちですね、それから貪欲・瞋恚・愚痴などもあります。他人様のわるくちを言ってもお巡りさんには捕まりませんが、十悪のうちのひとつなんです。

もっとも、悪口(あっく)にしても愚痴にしても、普通に私たちが考えるものと仏教で言うものとは違うところもあるのですが、それはそれとして、わるくちを言ったり愚痴を言ったり、そういうことばかりしているのが私たちではないでしょうか。私たちは毎日生活しているわけですが、それはとりもなおさず十悪といわれるような罪を犯しているということです。

(続きます)

私-2-2 (2/20)

実際にはこのご縁というものは、いただこうとしていただけるものではありませんし、いただかないでおこうとしたらいただかないことができるものでもありません。

それぞれがそれぞれにいただいてきたご縁の現在の結実として今ここにあります。ここにあるご縁の結実は、もともと私ではないのに私はそれを私と言い、私がここにいると思っています。これは自我のなせることで、私がここにいると思うこと、それもご縁であるわけです。

どうもややこしいうえに正確には言えないのですが、これからも私たちはご縁をいただき続けます。たとえば病気というものは、これはできればいただきたくないご縁でしょうけれども、病気になる時には病気になります。

私がここにいると思っている私は自分に都合のよいご縁はいただきたいけれど、都合の悪いご縁はいただきたくない。けれども、このご縁というものはただいただくばかりのものなのです。あれはほしいけれどもこれはいらない、そういう私の思いがまったく通じないものなのです。

ご縁のかたまりであるのに私があると思っている私は、ご縁をいただくばかりのものであるわけです。私がいてその私がご縁をいただいていくのではなく、今までもそうであったように、ただご縁をいただいて、そのいただくご縁のままに生かされます。

最後に確認しておきますが、これはいわゆる運命論ではありません。すべてが決まっていて、それに逆らうことができないというようなこととは違います。運命論は人間の間違った見識が作ったものです。

一番分かりやすいかと思う例をあげますと、運命論で言えば人間は死ぬことが運命づけられていますが、無生を説く仏教では無生であるがゆえに無死であると言うわけで、ご縁ということを説く仏教は運命論ではありません。これについては別の機会にお話しします。

私-2-1 (2/19)

あらゆるいのちがご縁に因って生まれます。いのちが生まれるのであって、私が生まれるのではありません。ご縁に因って生まれ、ご縁に因って護られてきたいのちを、私たちはいつの間にか私物化し、私の命とします。

あの人は我の強い人だとか言いますが、その我、自我というものができあがるのはいつ頃なのでしょう。人によって違うのでしょうが、その自我にめざめた時に私が生まれたと言い始めるのではないかと思います。

私が生まれたという間違った見識を疑うことがなくなってくる頃には、私は私の意志と力で生きていると思い始めるのでしょうが、実際にはそうではありません。

ご縁に因っていのちが生まれ、ご縁に因ってそのいのちが支えられ、護られ続けて何十年か経って、ご縁に因って今ここにこうして座っているいのち、それが私が私と言っているものの実際のありようであるわけです。

いただいたご縁のすべてが今こういう姿形でここにある。そのいただいたご縁というものが、私がいただこうとしていただいたものなら、自分の意志と力で得たご縁なら、私がここにいると言うのも間違ではないのでしょう。

私-1-2 (2/18)

たとえば空気があり、水があり、寒さや暑さを避けるもの、家で言えば屋根があり、その屋根をつくる材料があるという環境については言い出せばきりがないのですが、そういう環境が欠かせないわけです。

この環境というものは、これは子供だけでなく子供を育てる立場の人でも作り出せないものを数え切れないほど含んでいます。誰かが整えたのでないいのちについての環境というものが、これもやはりご縁に因ってある。だからいのちは護られているのです。

オギャーと産声を上げて、いきなり食べるものや身に纏うものや住まう家などというものを自分でどうにかすることができるようになった人はいません。誰しもが誰かの保護の元でいのちを護られてきたわけで、いのちを護ってきてくれたのは人だけでなく、人の力ではどうすることもできない環境でもあったのです。

私を中心にして言いますと、私は他の人や人の力ではどうすることもできない環境に護られて私のいのちを存えてきたということになります。護ってきたのではなくて、護られてきたのです。言うまでもなく、今も護られているのです。

お陰様という言葉をお聞きになったことがあると思いますが、これは私の知り得ないところで私を支え護ってくれている人やものごとに因って私は私であり得ている、そのことに対してありがとうとお礼もうす言葉です。

私-1-1 (2/17)

(言うまでもないことの確認)


あらゆるものごとがご縁に因って起こり、成り立っています。いのちということで言えば、あらゆるいのちがご縁に因って生まれてきます。いのちが生まれるのであって、私が生まれるのではありません。

ご縁に因っていのちが生まれた。いろいろないのちがあるのですが、私たちは人間ですから人間について言いますが、いのちが生まれ、そしてそのいのちがオギャーと産声を上げます。

特に人間の子供は弱いもののようで、数年間は他の人、ほとんどは親であるわけですが、ともかく他の人の保護がなければ育つこともできません。衣食住などといいますが、特に食、食べるものや飲むものが与えられなければ育つことができません。

次に衣食住の衣、これも特に人間の皮膚は弱いもののようですから体温を保つだけでなく皮膚をも護るためにも欠かせないものです。子供は身に纏うものがあったとしても自分で身につけることができません。

そして、住、これは普通には住まい、早い話が家ということになっていますが、総合的に言えば住環境ということです。いのちを護っていくために必要となる環境です。
(続きます)

生(しょう)-2 (2/16)

生まれていないというのではありません。生まれていないということではなく、私は私として生まれたのではなくて、ご縁に因っていのちが生まれ、それを今私が私と言っている。私が私として生まれたのでなく、ご縁に因って生まれたという見識、これが仏教の言う無生の意味です。

私たちは私が生まれたと思っていて、私が思っている私が生まれたということの内容をよく知らないままでいて、普段そんなことについては考えたりしないし、改めて考えてみることもなくなっています。そういう私たちに対して、仏教は無生ということをいうのです。

自分では気づかないままに私たちは間違った見識を持ってしまっているということを仏教は指摘します。そして、その間違った見識が元になってさらに別の間違った見識を持つ。ついには、その間違った見識が自分自身を苦しめることになると指摘します。

お聞きになったことがあるかと思いますが、四苦という言葉があります。生・老・病・死の四つの苦ということですが、その一番初めは生苦です。この生苦ということはいろいろに説明されますが、一つには生まれるということについての間違った見識が苦をつくるということです。

ちなみに、私たちが持っている生についての間違った見識は「亀毛」のようなものだと言われています。亀毛の亀は亀で、亀は長生きするようで、長く生きているうちに甲羅に藻がついてくる、その藻が毛のように見える、それを亀毛と言います。本来あり得ないものごと、実際にはないことを言っているわけです。

生(しょう)-1 (2/15)

いきなり難しいんですが、「衆生無生にして虚空のごとし」ということがたくさんのお経のなかに出てきます。ここでいう生とは生まれるという意味での生です。あらゆる人が無生であると仏教ではいうのです。

無生とはどういうことかともうしますと、生が無いということです。こんなことを言いますと、いや現に生まれてきているよ、生まれたから今ここにこうしているんだとおっしゃるかも知れません。

仏教の言う無生ということは、私たちが生、生まれるということについて持っている見識が間違っていて、生ということは、私たちが思っているような生、生まれるということではないということです。

私たちが思っている生、それが生まれるということであることは以後略しますが、それは私が私として生まれるということではないかと思うのですが、いかがでしょう。普段こんなことは考えたりしないですね、改めて考えてみなければならないことだと思います。

皆さんがどうお考えになるかは今は置いておくとして、ひとつ言えることは、私が私として生まれるなら、私は生まれた時から私でなければならりません。ですから、言ってみれば私が生まれる前に生まれたら私になる何かがなければならないということです。

私が生まれる前からあって生まれたら私になる何かというのは、それはたとえば霊魂のようなものかと思うのですが、そういうものは無い。そういうものによって生まれてきたのではない。あらゆるものごとがご縁に因って生まれ、成り立っているのであって、私が生まれる前から生まれたら私になる何かはありません。
(続きます)

お念仏-2 (1/16)

随から唐の時代の中国に善導大師というお坊さんがいて、この方が「南無は帰命であり、また発願・回向である。阿弥陀仏はつまり行である」というように南無阿弥陀仏の意味を説明して下さっていまして、それをもとに親鸞聖人も南無阿弥陀仏の意味を確認なさっています。

帰命というのは一心にたのむということ、一心ですから余念(ほかの思い)がないということですが、ただ一心にたのむということです。これは私たちが一心にたのむだけでなくて、「よりたのみなさいよ、よりかかりなさいよ」と阿弥陀さまの方から呼びかけていて下さる、はたらきかけていて下さるのです。

私たちに「よりたのみなさいよ、よりかかりなさいよ」と呼びかけはたらきかけていて下さる阿弥陀さまは、余念なく一心に南無阿弥陀仏とお念仏もうす者をすくわずにはおかない、必ずすくうという本願を完成しておられる仏であると、この説明は大雑把ですが、親鸞聖人はそのように確認なさっています。

南無阿弥陀仏は一心に余念なくお念仏もうす者をすくわずにはおかない、必ずすくうとおっしゃる阿弥陀さまのからの「お念仏もうしなさいよ」という呼びかけ、はたらきかけであるのです。お念仏もうしなさいよという呼びかけがお念仏であるのです。

お念仏-1 (1/15)

「なむあみだぶつ」ということにどういう印象をお持ちでしょうか。何かしらおまじないのような言葉だと思っていらっしゃるのではないかというのが私の憶測なんですが、どうでしょう。

おまじない、まじなうということは、国語辞典に載っている意味ですと、災いを避けようとして神仏などに祈る、祈ることによって病気とかを治療するということになります。漢字で書くと「呪う」となって「のろう」とも読みまして、他人に災いをふりかけるために祈るという意味もあります。

なむあみだぶつはおまじないの言葉ではありませんし、真宗ではといいますか、もともとの仏教ではともうしますか、けっしておまじないということをいたしません。祈るということがありません。

では、なむあみだぶつというのはどういうことなのかということですが、漢字で書きますと「南無阿弥陀仏」となるわけで、これは昔のインドのナマス・アミータ・ブッダという言葉の音を漢字で表したもので、阿弥陀仏に帰依いたしますという意味です。

言葉としてのなむあみだぶつの意味は阿弥陀仏に帰依いたしますということなのですが、お念仏、なむあみだぶつをお念仏といいますが、お念仏であるなむあみだぶつは、阿弥陀仏に帰依いたしますということにとどまらない意味があります。
(続きます)

他力本願-2 (1/14)

法蔵菩薩の48の誓願、それはそのまま阿弥陀仏の本願なのですが、48あるなかのひとつの「王本願」、これが48ある本願の中の肝心要のものであるといわれるものを紹介します。

もし私が仏になるときに、あらゆるいのちあるものが心から信じ、願って、私の国土に生まれたいと欲(おも)って、なむあみだぶつとお念仏もうしたとして、私の国土に生まれることができないなら、私は仏とはならない。一部割愛しましたが、これは第18願の念仏往生の願といわれるものです。

こういう本願が48ありまして、それが他力本願という時の本願であり、この本願の力、力というのははたらきということですが、本願の力を他力といいます。

今ひとつ紹介しました第18願でいいますと、私の国土、つまりお浄土に生まれたいとおもってなむあみだぶつとお念仏もうす人がお浄土に生まれることができないなら私は仏にはならないと誓い願われた誓願が成就されて阿弥陀仏となっておられる。

その誓願が本願となっているということは、阿弥陀さまのお浄土に生まれたいとおもって、なむあみだぶつともうす人を必ずお浄土に生まれさせる本願の力、はたらきが完成されたということなのです。

本願というのは阿弥陀さまが成就なさったはたらきであって、その本願の力を他力、他力本願といいます。

他力本願-1 (1/13)

他力本願という言葉は何度かお聞きになったことがあるのではないかと思います。「そんな他力本願のようなやり方ではダメだ、自分の力を信じて精いっぱい努力しないといけない」とか。

そういう文脈で使われることが多いのですが、これは間違った解釈をもとにした言い方です。他人の力をあてにしておこぼれをいただこうというような意味は、もともとはありません。そんな意味はないのですが、困ったことに国語辞典なんかにはそういう意味も掲載されています。

もともとは他力というのは阿弥陀さまの本願力をいいます。阿弥陀さまの本願力を他力といい、他力すなわち本願力が他力本願であるのです。ちなみに、自力本願という言葉は他力本願の反意語としてできた言葉で、もともと自力本願という言葉があったのではありません。

もうあと少しで仏になる、今は仏ではないんだけれど、限りなく仏に近づいている菩薩といわれる方々がおられまして、この菩薩がもっておられるのが「誓願」です。この誓願、誓い・願いが成就されれば菩薩はめでたく仏になられる。菩薩が仏になった時には、菩薩であった時の「誓願」が「本願」になります。

たとえば、阿弥陀仏というのは、法蔵という菩薩が仏になられて阿弥陀仏となられたのですが、法蔵菩薩がもっておられた48の誓願が成就されて、法蔵菩薩が阿弥陀仏になられて、48の誓願が本願になりまして、この48の本願が他力本願という時の本願なのです。
(続きます)

阿弥陀さま-2 (1/12)

では、私はどういうふうにして生まれてきたのでしょうか。たとえとして「血縁」ということを言いましたが、この「血縁」という言葉にある「縁」という一字、普段耳にすることが多い言葉で「縁談」などという言葉がありますが、その「縁」、ご縁に因って私は生まれてきたのです。

言い直しますと、私が生まれたのではなくて、ご縁によって生まれたのが私であったということになります。ですから、本当のところは私が生まれたというのは正確な言い方ではなくて、ご縁に因って命をいただいて私がいるというのが正確なのです。

ついでに言いますと、私が生きているというよりも、私はご縁によって生かされていると言う方が正確なのです。自分の食べたり着たりする物くらい自分の力で働いてお給料を貰って買っているとおっしゃるかも知れませんが、お金をいくら出してもお米一粒、原油の1ミリリットルも創ることはできません。

さて、そのご縁ということに関してですが、何によって私はご縁をいただいているのかということが気になるかと思うのですが、私にあらゆるご縁をくださる方を阿弥陀さまというのです。

これは、今はそうは思えないとおっしゃる方もおられるでしょうから、仮にということでも結構ですが、阿弥陀さまが私やあなたやあらゆる人に、人に限らずあらゆるいのちあるものにご縁を恵んで下さっているのです。

何処か遠い所にいらっしゃる仏さま、私とはほとんど無関係の偉い方と思っていた阿弥陀さま、実は私にとってこれほど身近な仏さまはいらっしゃらないのです。考え方によっては父親や母親よりも身近なのが阿弥陀さまという仏さまであるのです。

阿弥陀さま-1 (1/11)

阿弥陀さまと言いますと、何処かはるか遠いところにいらっしゃる仏さま、私とはほとんど無関係の偉い方というような感じがすると思うのですが、どうですか。でも、阿弥陀さまというのは、実はそうではないんです。

たとえば「血縁」、血のつながりということで言えば、私にもあなたにもみなさんに父親と母親がいて、その父親にも父親と母親がいて、母親の方にも父親と母親がいます。2代さかのぼるだけで、6人の人がいてはじめて私がいるわけです。

ここにいる私は、突然にひょっこり生まれてきたのではありませんし、しかも完全にというか、まったく自分の意志と力で生まれてきたのでもないというのは、間違いのない事実です。日常の生活の中ではまったくと言っていいほど気づかなくなってしまっていますが、間違いのない事実です。

同時に、私が今ここにこうしているということも事実で、つまり、私は自分の意志や力と関係なく生まれ、いまここにいるということになります。考えてみれば不思議なことです。
(続きます)

仏教-2 (1/10)

釈迦牟尼仏の教えを亡くなった方は聞くことができるのでしょうか。理屈を言えば、耳はもう聞こえないでしょうし、火葬をした場合は耳がありません。何が言いたいのかといえば、今生きて生活している人が仏になるために聞く釈迦牟尼仏の教えが仏教であるということです。

そもそもお経というのは、お釈迦さまのお説法を聞き覚えていた人が、お釈迦さま亡き後にまとめたもので、お釈迦さまは生きている人に対してお説法をなさったのでした。

仏教というのは、決して死んだ人のための教えではありません。いま生きて生活している者が仏となるための教えであって、しかも、何処かの山深いお寺にこもって修行をしている人だけが仏になる教えでもありません。

仏になるためには、すべての人が厳しい戒律を守って厳しい修行をしなければならないのなら、子孫は残らないのですから、仏教は人類を滅亡に導く教えということになりますが、決してそのような教えではありません。

仏教は過去・未来・現在のあらゆる人が仏となるための仏の教えなのです。

仏教-1 (1/9)

仏教というのは字をご欄になればわかる通り、仏の教えです。仏といいますのは、この場合は、皆さんもご存じのはずのお釈迦さまです。お釈迦さまの教えということです。

お釈迦さまといいますのは、今からざっと2500年も前のインドに実在した方で、もちろんもともとは人であって、実在した人が仏となられたわけです。

ちなみに、仏となることを成仏といいます。もともとは生きている人が仏となることを成仏といいまして、死んだ人に対して迷わず成仏して下さいなどということは、少なくともお釈迦さまご在世の当時はあり得ない言い方でした。

さて、仏教はお釈迦さま、釈迦牟尼仏の教えなのですが、それだけではなくてお釈迦さまのように仏になる教えという意味でもあります。仏であるお釈迦さまの教えであり、お釈迦さまのように仏になる教えです。

皆さんがどう考えておられるかわからないのですが、お葬式ができたら頼むのがお寺で、亡くなった方の面倒を見るといいますか、とりあえず亡くなった方が無事に仏になられるようにするのが仏教、仏になれるようにお経をお勤めをしたりするのが仏教だと思っておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
(続きます)
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