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ひまわり

庫裏の東側の草だらけの場所にひまわりの花が咲いたのは8月の中頃でした。暑くて外回りの仕事をする気になれず、やけに茎が太くて引っこ抜くのに大変だと思っていた「草」は、ひまわりでした。

花が咲いてはじめてひまわりだと分かったのですが、思い切って暑い中草刈りをしていたら、ひまわりなんだけれども、私の中では「草」で終わってしまっていたに違いありません。

うちの村では3年ほど前から5月にひまわりの種を各家に配って、それを育てて丈を競うようなことが始まっていまして、村からいただいたひまわりの種を庫裏の東側にまいておいたのですが、花が咲くまで種をいただいたことも種をまいたことも、まいた場所も忘れていました。


仮に花が「果」で種が「因」だとして、普通の考えでは因があって果があるということになっていて、それは確かにそうに違いはありません。違いはないのですが、花が咲くという「果」がないとき、「因」は因としてあるのでしょうか。事実、一昨年去年も種をまいたはずなのですが、何かの具合で花が咲くのを見ていないのです。

我々が普通だと思っている因果というのは、かなりおかしな代物です。少なくとも仏教でいう因果とは、果というものから因縁を憶念するということ、仮に果とするものごとをもたらすことになった因縁を憶念するということだとお聞きしています。それ以外に因果はないのです。

私というものは、如来に願いをかけていただいている身である。如来にお念仏もうせよと願われている身である。その如来の願いというのは本願成就の果である。ところが、私にはその果というものがわからなくて、その如来の願いというものは見えません。だから何故如来がこの私一人をめあてにご本願を成就して、お念仏を廻向していてくださるのかを憶念することがありません。

十年ほど前からかなり衰えてきてはいるのですが、有り難いことに私は見える眼をいただいています。見える眼をもっているということは有り難いことなのですが、同時に、見えるものしか見ないということでもあるのだと、つくづくと思います。如来のご本願成就の因はこの私にあるのです。