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異なり、間違い

ある門徒さんから、その方がご親戚宅の法事にお参りなさったときのことをお聞きしました。そのご親戚宅というのも真宗大谷派のご門徒さんで、お聞きしたかなり長いお話の要点を簡単にまとめますと、だいたい次の2つになります。

一つは、お参りになった「お寺さん」が、正信念仏偈同朋奉讃のお勤めの和讃について、弥陀成仏のこのかたは〜仏光照曜最第一は、「これはあかん」といって他のもの(たぶん十方微塵世界のからの六首)になさったが、私らが普段お勤めしている「弥陀成仏のこのかたは〜仏光照曜最第一」が「あかん」とはどういうことなんだろう。

二つには、お勤めの後のお話しが難しくて分からず、おまけに長くて午後1時になっても終わらないからご親戚宅の方がそろそろ終わってもらえないかとお願いなさって、それから15分ほどしてやっと終わったけれど、遅くても12時半くらいには終わるのが常識じゃないんだろうか。

大体そんなふうなことで、そのご門徒さんが私にお話なさった時間が長かったのは二つ目についてでしたが、私としてはこちらの方についてはここに書くことは何もありません。

一つ目について、思い浮かんだのは曽我先生が「真宗の眼目」第一講で
(ここから)
我等の祖先は第十八願の欲生というものを持余して居った。欲生とさえ云えば自力だと考えられた。十八願の欲生を他力の欲生だ、強いてこういうけれども心の中では自力だ、だから欲生を苦心惨憺して、いろいろさまざまに言葉をあっちへ廻しこっちへ廻して、なければよいのだけれどもあるものだから、あるものを消す訳にいかないものだからして、それを何とかして、痛いところへ触らぬようにして居った。欲生我国がないものならよいけれども、願文にあるものだから仕方がない。
(ここまで)
と言っておられることです。

直接関係はありませんが、第十八願の欲生というものを自力だと考えるから欲生我国がないものならよいけれども、願文にあるものだから仕方がないとなるのと同じで、「業繋」であるとか「三塗の黒暗」というような言葉を「持余して」、弥陀成仏のこのかたは〜仏光照曜最第一ではない和讃を使われたのではないかと思えました。

「なければよいのだけれどもあるものだから、あるものを消す訳にいかないものだから」というのは、たとえば第三十五願などもそんなふうに思う方がおられるのではないかと思ったりします。

異なり、間違いがあるのは常に「私」である。

(なお、この文章は、自分が忘れないためにここに書いておくだけのことです。)