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今日はお講さん

このところ斜面にへばりついての笹刈りで、身体中すっかり疲れてしまっています。特に足と肩、それから腰が痛く、第二日曜のお講さんの準備もなかなか捗りませんでしたが、今日は何とかお講さんを終えさせていただきました。

朝から山道を掃いて目立つ草だけは引いたのですが、それが精一杯で、当番の方達が早くから掃除をして下さいました。私よりはるかにお年をめした方達のお世話になり、申し訳ない限りです。

おまけに、二人の方からたくさんの玉ねぎをいただいて、あわせると中くらいの大きさの段ボール箱にいっぱいになりました。午後からそれを4つずつ紐で縛って竹竿に吊しました。

お講さんのあとでお茶をいただきながら話しておられるのを聞いていますと、やはり足が痛い、腰が痛いという方が多く、やっぱり同じなんだなと思うと同時に、この歳での足腰の痛さと皆さんのお歳での痛さは違うのかなとも思えてきました。

若いときは身体も強くて柔らかく、同じ仕事をしても捗るし疲れも少ないんでしょうね。もっとも、若いときには境内の草を引いたり、裏山の斜面の笹を刈るなどということはあまりしないのでしょう。そういうのは、ある程度歳を重ねて、初めてしなくちゃいけないと思える仕事なんでしょう。

若いときは何かと自分のことを棚の上に上げる。身体も柔らかだから、簡単に腰を伸ばして棚の上に上げられる。それで、そこそこ歳を重ねて、裏山の斜面の笹刈りなどということが気になり始める頃には、もう足腰に痛みがあったりして、若いときに棚の上に上げた自分というものに気がついても、もうそれを易々とは下ろすこともできない。

自分というものが棚の上に上げられているのが見える程に眼がよければまだよいものの、老眼もすすんでなかなかものが見えない。眼鏡はかけているんだけれども、ひどく眼が悪いから眼鏡のレンズの汚れが見えない。眼鏡の掃除をして、きれいなレンズで見ているつもりが、かけている眼鏡はやはり汚れているから棚の上の自分というのが見えない。

大体がそんなふうなことでないかと思えます。我々、いくら「自分」を見る、「自分」に気がつくと言っても、棚の上の「自分様」は決して下ろせないままでろくに見えもしない汚れた眼鏡で見えるだけのことを見て、気がつくだけのことに気づいている。

見るということ、気づくということは、これはやはり如来のおはからいをこそ言うのでしょう。