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矛盾と撞着

矛盾というのは、たとえば「無明」とその対立概念(「明」?)の間に第三の概念が入る余地がない。撞着は、そうでない。と、そう私は記憶している。だから、矛盾と撞着は、少し違う。

自らが仏になる(自利)ということと一切の衆生をすくう(利他)ということには、普通に考えれば撞着がある。一切衆生をすくえないなら仏にはなれないし、仏でなければ一切衆生をすくえない。もっともこれは大乗だけの話になるのかも知れない。

こちらで「浄土教の美しい思想・・・還相の菩薩」ということを考察しておかれて、興味深い。ちなみに、そこには曾我師の言葉も少し引用なさっている。

法蔵菩薩さまが阿頼耶識かどうかなどということは私には判断しようもないが、阿弥陀さまが還相の法蔵菩薩さまとなられて、今ここに、いつでもどこにでも在さないのであれば、自利と利他はまったく矛盾する。阿弥陀さまの十劫正覚は絵空事になり、我々がすくわれることもない。

今はどこにあった言葉かは忘れたけれど、確か曾我師が「阿弥陀さまが南無なされる」というようなことをおっしゃっている。阿弥陀さまがまるまっこいお念仏・本願念仏を成就してくださったのであり、法蔵菩薩さまとなってくださった。

だから撞着が撞着でなくなったと考えるのが我々の習い性なのだろうが、もとよりそこに撞着などなかったのであろう。

法蔵菩薩さまが私となっていてくださる。それを「浄土教の美しい思想」と言うべきかどうかを私は知らない。確かに感じるのは、まるまっこいお念仏、南無阿弥陀仏は「思想」でも「概念」でもないということだ。