表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

自信教人信−3

自信教人信とは善導大師の「往生礼讃」にある言葉である。親鸞聖人はこれを「教行信証」に引用なさっている。自ら信じ、人を教えて信ぜしむるという意味である。

教科書的な説明としてはそれでいいのだろうけれど、少なくともこの自力の垢にまみれきった私は、それではどうしても腑に落ちない。

もう二十年ほども前に組の推進員研修会の席で「自信教人信とはどういう意味ですか」と質問された推進員さんがあった。

おそらく当時70歳くらいのその方も、自ら信じ人を教えて信ぜしむるということが他力の教えと相容れないように感じてのご質問だったに違いなく、当時の組長さんの教科書的な回答を聞かれても、納得できないご様子だった。

私は識らずして自信ということ、教人信ということ、こういうことをわがものとする。

そもそも、如来のご廻向でないもの・ことなど何ひとつない。

「仏世はなはだ値いがたし」。しかしながら、阿弥陀さまもお釈迦さまも今現在説法していてくださる。

「人、信慧あること難し。遇希有の法を聞くこと、これまた最も難しとす」。私は法に行ぜられてありながら法にお遇いしていない。

だから、当然のことながら「自ら信じ人を教えて信ぜしむること」という往相と還相のご廻向、総じて如来のおはたらきということは、この一人の身を通してということとなると「難の中に転たまた難し」。

「大悲弘く普く化するは、真に仏恩を報ずるに成る」。つまり、如来の大悲によってこの我慢我執の身が化される=教化せられる、転ぜられるときには、すなわち仏恩を報ずるに成る。

本願力にお値遇するなら、そこに「私」というものなどあるのだろうか。