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願生

もちろん私という一個人を主体とするのでないだけでなく、いまだすくわれず、いまだすくわれないが故に必ずすくわれるべき人間というものを主体とするのでもない。

たとえば、慈悲ということの主体を私とするなら、慈悲とはどういう意味になるだろう。また、慈悲ということの主体を人間とするなら、どういうことになるだろう。

四無量心とは仏の心である。その主体がいつの間にか人間になり、私になると、慈悲から慈も悲もなくなる。慈も悲もない慈悲が慈悲になると、慈悲は使い古される。

小慈悲だの衆生縁だのという言葉の問題ではない。仏の教えをわからなくしているのは私であり、人間である。

私という個人、また人間の妄念妄想をもとにした知恵で仏の教えを解釈し、いわば再構築するから、仏の教えがわからないものになる。




他力の教えの根本にあるのは、信心であって、それは如来のご信心である。

第十八の願には「十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念」とあり、本願成就文には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国」とある。

願生彼国の主体は誰なのかということ、これはよくよくお聞かせをいただかなければならないことだと思う。