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報土と化土

たとえば、西方十万億土にお浄土があって、そこは真実報土と方便化土とに分かれている。「切符」によっては方便化土止まりだったり、真実報土まで行けたりする。

こんなことは、お経をいただいても、その釈をいただいても、頭が文字をいただいているから言うことである。

頭が文字をいただくと、身証ということが欠落する。だから実は「いただいている」とは言えないのだろう。

我々が頭で文字を解釈して、頭が論理を組み立てて、さて、できあがるのはせいぜい「化」であり、「権」であり、「方便」ではなかろうか。

方便は真実を生まない。真実は、方便を方便と知らしめる。

真実報土と方便化土とは同じではない。




身証というのは、たとえば釈尊なら釈尊が、あるいはご開山ならご開山が、その身に積み重なったご縁において、これこそが如来からのいただきものだと感じられたところにある歓喜であるとは言えまいか。

歓喜あるところに真実報土がある、そうして、真実報土が方便化土を方便化土と名付けるとは言えまいか。