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法蔵菩薩 (11)

まぁこれは喩えに過ぎません。喩えに過ぎないけれども、お念仏の道というのは阿弥陀さまがひらいて下さったんです。これは決して喩えなどではなく、法蔵菩薩さまはこの私を背負って阿弥陀さまのお浄土へ歩んでいて下さいます。私というものはそれがわからない。遇いがたい教えにであっても、その道を自分が歩くものだと思っています。だから、やはり自分は死に向かって歩いている、そう思っています。お念仏の教えにおであいしながらも、やはり自分は死に向かって歩いているとしか思えないから、お浄土もまた死んだ後に行くところになります。死ぬということはどうもやはりマイナスな感じですね。先ほどの話で言えば私は電気で、生まれるのはプラス、死ぬのはマイナスで、やはりプラスからマイナスへ向かって歩いている。だからどうしても暗い。何かで大儲けでもして大金を持ったとしても、本当には喜べない。笑いが止まらないような嬉しいことがあっても、死に向かっているから、本当には喜べない。悲しいことばかりしかない、辛い思いをするばかりだ、いっそのこと死んでしまおうか。私らは時々そういうことを思う。いや、思わん人もいるかも知れないが、いっそのこと死んでしまいたいというのも、自分で歩むその歩みを止めてしまおうということでしょう。笑いが止まらんような人でも死んでしまいたいと思う人でも、私が私の足で歩いているんだと、同じことを思っているわけです。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり 法身の光輪きわもなく 世の盲冥をてらすなり」。穢土というか、娑婆世界、私らの暮らす世界は暗い。妄念妄想の私らが寄ってたかって暗くしている。世の盲冥をつくっている。その妄念妄想の盲冥のなかを、私というもの、それが泣いていようが笑っていようが、みな法蔵菩薩さまの背に背負われている。生まれるのがプラス、死ぬのがマイナスではないんです。プラスもマイナスもないんです。私が私と思っているその私を主体としていると、妄念妄想によってプラスもあればマイナスもあることになる。私が泣こうが笑おうが、私は死に向かって歩まねばならない。そうでない。ただあるのは私となっていてくださる法蔵菩薩さまの歩みがある。南無阿弥陀仏という本願念仏がある。仏願の生起の本末を聞きて疑心あることなし。お念仏がお念仏を生むその根本は南無阿弥陀仏という一切衆生がそれによってすくわれるところの本願念仏の成就にある。それが仏願の生起の本である。分かつことは本来はできないが、あえて分ければそこに仏願の生起の本がある。本があって末がない道理がない。その成就された本願念仏、南無阿弥陀仏という法をもって、法蔵菩薩さまは今この私となって、いまだすくわれないこの私と一体となって、私のつくりとつくる悪を一身に引きうけて、私を背負って歩んでいて下さる。お念仏という大道を絶えることなく歩み続けていて下さる。仏願の生起の末とは、あえて分けて言うところの末とは何か。この五逆の悪衆生であるこの私がご本願を信ぜしめられ、お念仏もうす身としていただくことである。本願を信じ念仏もうさば仏となる。仏とならせていただくときには私などおりません。だから言ってみれば、仏となられるのは私となっていてくださる法蔵菩薩さまである。この私の我執というものはどこまでも強い。どこまでも強いから私が仏となるんだと思う。そういう思い、妄念妄想は絶つことができない。だから絶たなくてよい、絶たなくてよいからお念仏もうしなさい。仏になるのが私なのか法蔵菩薩さまなのか、そういうことは私がわかろうとしてわかるものでない。ただ、お念仏もうすのである。仏教とは本願を信じ、念仏もうさば仏になるという教えです。

今日は漠然と法蔵菩薩さまのお話しをさせていただこうと思っていまして、それが何やかやと思いつくことを言うから筋道もないし、いつの間にやら灯油だ電気だというような話までしてまして、けれども考えてみますと筋道なんてものがもともとないのが我々です。いや、これは言い訳ではなく。しっかりとした筋道というものがあるのは法蔵菩薩さま。如来が筋道をつけておいて下さるその筋道を歩んで下さるんですね。予定していた時間も少し、少しではないですね、かなり過ぎました。話というのは尽きないものでして、明日も明後日もずっとお話しできればよいんでしょうね、法蔵菩薩さまのおはたらきのように。けれども今日は今日でだいたいのことはお話ししたように思います。これで終わらせていただきます。