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法蔵菩薩 (10)

仏教というのは、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」教えです。これは親鸞聖人がご生涯をかけてご確認なさった。親鸞聖人がご確認なさったから、仏教とは南無阿弥陀仏であると、そう言うのではありません。どうもうまく言えませんが、いわば仏教がその歴史をもって、お釈迦さまに始まるのでない仏教の歴史を通して、仏教とは南無阿弥陀仏であると示しているのです。「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」、これ、本当は「難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なり」とひとつの文章としては続くのですが、今日は「円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智」ということだけしか言いません。円融至徳の嘉号、すなわち本願念仏、南無阿弥陀仏は悪を転じて、つまり一切衆生の悪という悪すべてを転じてくださる。そうして徳を成す、お念仏もうす身とならせてくださる、そういう仏の正智である。人間の知恵はすべて悪知恵ですが、この正智というのはそうでない。これは仏の智恵である。だいたい言えばそういうことになると思いますが、円融至徳の嘉号が一切衆生をお念仏もうす身としてくださるということは、つまりお念仏がお念仏を生むということ。本願念仏がお念仏を生むということは、念と念とが相続するということです。お念仏もうす身とならせていただくというと、何かしらこの私というものが徳と言うか善と言うか、そういうものを成すように聞こえますが、そうでない。なるほどお念仏は円融の至徳である、これに勝るべき善はない。しかし、お念仏をもうす私が徳を成し、善を成すのでない。私というものは、これはあくまでも本願念仏によって転じられるべき悪である。徳を成すというのは、本願念仏が、円融至徳の嘉号がお念仏を生む。お念仏もうす身というのは、そこにはもう「私」というべきものはおらんのです。「私」というべきものがおらんようになって、ただお念仏がお念仏を生んでいく。「私」と言っていたものは、では、どこへ行ったか。どこへも行かない、私が私だと思っているような私というものは始めからおらなかったのである。それが分からせていただけるということが転じられるということ。転じられて初めて、始めからこの身はただお念仏もうすことを願われている身であった。私が私だと思っていた私というのは始めからおらず、おったのはただお念仏もうすこの身であった。お念仏がお念仏を生む念と念との相続の中に、ただ、ただというのは必ずということ、ただすくわれていくのがこの身であるという道理が明らかになる。

私は理科といいますか、化学は昔からさっぱり分からないのですが、学生の頃に、中学か高校かの時分に電気のことを習ったのは覚えています。電気が流れなかったらいくら灯油があっても火はつかないんです。火がつかないから少しも暖かくならないんです、冬場に停電になって、こういう電気を使うストーブしかなくて困ったことがあるんではないですか。ここにあるこのストーブ、今も火花を飛ばして灯油に火を付けているのは電気です。その電気というのはプラスからマイナスへと流れる。間違ってたら、詳しい方、指摘してください。電気はプラスからマイナスへ流れるんだけれども、実際には、というか正確には電子というものがあってそれがマイナスからプラスへと移動するのを電気が流れると言っているわけです。私は電気だ、大いに流れて灯油に火を付けて燃やしてやろうじゃないかとね、私らはそう思っているんですよ。ところが実はそうではなかった。電気は確かに流れている。それはそうだけれども、実には電気ではなくて電子というものが、つまり法蔵菩薩さまがおはたらき下さるから、電子というものがいわばお浄土へ向かって勇猛精進志願無倦、和顔愛語先意承問、血の涙をお流しになって、それでも血の汗をおかきになりながら、血の涙を流させるばかりのこの一人を必ずすくうんだとおはたらきくださるから電気が流れていたんです。電気というのは、このストーブもそうですが、電線を流れる。この畳の上にあるこのコード、これをずっと辿っていけば発電所に行き着くんでしょう。法蔵菩薩さまのおはたらきというもの、これは眼に見えないから眼で見て辿るのでないが、辿っていけば阿弥陀さまに辿り着くんです。阿弥陀さまのお浄土に辿り着くんです。阿弥陀さまから、そのお浄土からこの穢土といわれる世界にあって妄念妄想を作って法蔵菩薩さまに血の涙を流させるばかりのこの一人まで、ただひとつの一本道がある。それは眼には見えない。見えません。大信によってひらかれた大道であって、言ってみれば見渡す限りがその道であるから凡夫の眼では逆にそれが一本道だと見えない。阿弥陀さまのご信心によってひらかれた道、それを念仏道というのです。