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法蔵菩薩 (8)

法蔵菩薩さまは本願念仏をもって衆生と一体となって、和顔愛語先意承問、今現におはたらき下さっている。阿弥陀仏が法蔵菩薩となり、その菩薩が衆生にまでなっていてくださるのです。仏が菩薩となり、菩薩が衆生にまでなっておはたらき下さる。なぜか。この私がいまだすくわれないままだからであって、それは我々の世界にもあるような「親身になる」などというような程度のことでない。法蔵菩薩さまはこの身になり切っておはたらき下さっている。私らは夜になると眠ります。夜でなくても、眠くなれば寝ます。法蔵菩薩さまはお眠りにはならん。これは喩えて言うようですが、我々寝ているときにはだいたい目と口を閉じているけれども、耳と鼻は閉じない。耳と鼻は閉じようとして閉じられますか、閉じられません。そういうようにできている。鼻は息を吸い息を吐く。これは息をするということであって、それは生きるということでもある。耳は聞く。何を聞くかといえば、法蔵菩薩さまのお念仏をお聞きする。声というか音を聞くのでありません、南無阿弥陀仏というおはたらきをお聞きする。まるで死んだように眠っていても生きている。生きているということは、だからお念仏をいただくということである。起きて目を開いていると、見えるものだけがあるものだと思う。おまけに口まで開くと、言うことといえば愚痴と自慢だけであって、先ほど申しました自分を省みるなどということも所詮は自慢ですが、おや、何だか静かだなと思えばお饅頭か何かでも食べているんですね。いやいや、笑い事ではありません、そうでしょう。お念仏もうすということは忘れているでしょう。それが時々思い出してお念仏もうすようなときというのは、たいていがもの頼み。この私を何としてもすくうぞと、仏が菩薩となり菩薩が私となっていてくださる法蔵菩薩さまに申し訳もございません、まことに有り難うございますというような気持ちなど微塵もない。なんということですか、これは。

これはまた今思いつきまして言うだけのことですが、同朋奉讃式とか言って正信偈のお勤めをしますね。内緒ですけど、あれ、よくお勤めができるもんだと時々思います。正信偈さんの三句目に法蔵菩薩因位時とありまして、この私となっておはたらき下さる法蔵菩薩さまに申し訳ない、私というものはこの上なく有り難いおはたらきをいただきながらお念仏もうすこともできないでいる者だと、法蔵菩薩さまのお名前を三句目に見てふと思わせていただいたりしますと、もう何だか最近は特に涙腺が弱くなっているせいか、涙目になって声もふるえだします。お勤めが続けられなくなって、ただもうわけも分からないままで、気がつけばなんまんだぶとだけ言て続けています。もしお勤めもできんなら坊主失格だと言われるなら、私、喜んで失格になります。あの正信偈さんというもの、親鸞聖人のご制作の意図と申しますか、なぜおつくりになったのかということにつきましては私なりに思うところはあるんですが、それはみなさんにご披露するようなものでもありません。けれども、これ確か先ほども言ったように思いますが、親鸞聖人が書いておかれないこと、つまり法蔵菩薩さまが今ここで本願念仏をもってご修行くださっているということこそが本当の大事で、それは勤行ということとはまったく意味合いの違うところにある一大事です。それが勤行となると、勤行もまた意味合いの違う大事ではあるのですけれども、正信偈さんにある一大事がないものになる。どうもそんなことを思いますね。勤行ということは、それはそれで大事です。けれども、それよりも何よりも大事なことがあります。時々うちの孫は正信偈をそらんじていて、毎朝毎晩お勤めをすると言って自慢なさる方がありますが、どうも大きな間違いが二つほどはあるように思いますね。