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法蔵菩薩 (7)

つまらないことを言いましたが、機ということ、そこにはたらいて下さる法蔵菩薩さまのお話でして、だいたい私たち、本当に苦しみのなかにあるとき、それを誰かに話そうという気になるものでしょうか。自分の胸のうちというもの、余程の人にでなければ言う気にはならないのではないでしょうか。他の人のことは分かりませんから自分のことしか言えないのですが、このあいだ血圧の薬をもらいに行って、どうもこの頃何も身体に負担のかかるようなことをしてもいないのに突然に動悸がすることが多くて、胸が詰まりそうになって、というようなことをお医者さんに言いましたらパニック症という病気じゃないかと言われました。それはどうでもよいのですが、胸が詰まって息苦しくなって身体を動かすこともできなくて、大げさに言えばいよいよ娑婆の縁も尽きるかと思うようなときには、私はまわりに人は居てほしくないです。まわりに人が居ると、人目につかないところへ行きたくなって身体を動かすもんだから余計に苦しくなります。「どうしたんですか、大丈夫ですか」なんて言われても、それに応えるのが苦しいんです。「いつものことで、大丈夫です」とそれだけのことが言えないことが多くて本当に失礼をしてしまうんですが、そういうことが重なってきてまして、実際のところこの頃は人前に出るのも少し気が引けるんですが、法蔵菩薩さまは「どうしたんですか、大丈夫ですか」なんておっしゃいません。すでにご承知なんです。先ほど申しました先意承問ですね、こちらが何も言わなくても、何かを言う前に何もかも分かっていて下さる。この私の身と一緒になっていて下さるから、私と一緒になって苦しんで下さっていて、お念仏もうしなさいよと和顔にして愛語してくださるんです。私がいのちのご縁をいただいたのは、そういう阿弥陀さまの大悲のなかなんです。親身になるという言葉がありまして、これは字の通りで親の身になる、親のようになるというようなことだそうです。世の中には他人さまが困っておられるようなときに本当に親のようになってお世話なさる方がおいでになって、私なんかには真似もできないんですが、如来の大悲というもの、法蔵菩薩さまのおはたらきというものは、親身になるどころではありません。この私、この身になってくださるのです。いや、これからなってくださるのではなくて、すでになっていてくださるのです。そういう如来の、法蔵菩薩さまのおはたらきのなかに、私はいのちのご縁を賜っているのです。機であるということは、そういうことです。ですから、私は私のことを私と言っておりますが、それはその通りではあるのですが、実は私というのは、如来の、法蔵菩薩さまのおはたらきの場でもあるのです。私は私である、確かにそうであるけれども、そうであるだけではなくて、これ(この私)は如来のおはたらきの場であり、法蔵菩薩さまが今も菩薩行をご修行くださる場でもあるのです。

翻って自分自身をみてみればどうかなどというようなことは、私は申しません。言うまでもないことで、如来と申しますか、法蔵菩薩さまをなきものにするようなことしかしておりません。これまでもそうでしたし、これからもそうです。なるほど一旦は法蔵菩薩さまがここにおはたらき下さる、有り難いことだと涙がでるかも知れませんが、信楽受持甚以難難中之難無過斯とおっしゃっておかれる通りです。それだけではなくて、何か先ほども言ったような気がするのですが、自分を省みる自分をどうするのか、もっと言えば自分を省みる自分というものを客観する自分をどうするのかという問題があります。何か事を成し遂げた、それに満足する自分がいて、それではいけないんだと自己批判する、その自己批判する自分をどうするのか。本山へでも行っておかみそりを受けた。これでやっと法名がいただけたと満足する自分がいて、そうではないんだ。それで満足していてはいけない、これから仏法をお聞きしていかないといけないんだと思い直す、その思い直す自分はいったい何者ですか。自分を省みるということは邪見驕慢の悪衆生の鼻をどんどん高くするだけのものでして、何か大きな穴のなかにいて、その中で、その中にいると知らずにまた穴を掘るようなことでして、それは実は何か一段高いところに自分というものを置いておいて、そうとは気づかないままにその一段高いところで足継ぎ台をどんどん積み上げていくようなことでないかと思います。うまく言えないのですが、自分をどんどん掘り下げてみていくということは、結局つまりは自分をどんどん高みに置くだけのことでないか。どうしてもそうなるのが人間というもの、この私、衆生というものでないか。だから法蔵菩薩さまは衆生というものになり切っておはたらき下さるのではないかと、そう思うわけです。