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法蔵菩薩 (6)

昨日あたりからでしたか一昨日くらいからでしたか急に寒くなりまして、今日はストーブがたいてあります。このファンヒーターというのは漆にはよくないのでしょうが、暖かくてありがたいですね。ストーブがたいてあると言いましてもストーブが燃えているわけではなくて、燃えているのは灯油です。これは冗談ではなくて、機ということを言うのですが、機というのは喩えてみれば灯油です。灯油は燃えるという性質をもともと持っているけれども、瓶にでも入れておけばそれだけで燃えるというものではありません。マッチに火をつけて灯油の入った瓶に放り込めばたちまちに燃え上がります。灯油というのはそういうものでしょう。機というのもあらゆる衆生がもともともっている性質・性能で、それ自体でははたらかない。それ自体ではというか、自分からははたらかない。瓶に入った灯油である。けれども、いったんご縁によって法というもの、如来のおはたらき下さる南無阿弥陀仏に触れればたちまちに火がつく。火がついて、衆生の身が粉になって骨が砕かれるところまでその火が消えることはない。衆生というものには、そういう性質がもともとある。ですから、先ほど申しました恩徳讃、あれは決してこんな意味ではありませんが、如来の大悲、師主知識の恩徳というものに報じんとして、わずかでもそれが適うその時には身は粉になるだろうし、骨はくだけて灰にまでなる。そう言うこともできるかと思うのですが、それは衆生というもの、この私が機といわれる性質・性能をいただいているからである。


つまりですね、衆生といわれるこの私、私たち一人ひとりすべて、気がつかなかったんだけれども南無阿弥陀仏という本願念仏の満ち満ちる世界にいのちのご縁をいただいていた。衆生多生不可思議などという言葉があるようですが、次から次へと生まれてくる衆生というもの、そのすべてが、その一人ひとりが、すべて阿弥陀さまの願いのなかに、必ずあなたさまにすくわれる身とならせていただきますと「おぎゃー」と産声をあげたのです。あなたお生まれはどちら?はい、滋賀県でございます。確かにそうです。そうですけれども、そうではなくて、それだけではなくて、私は阿弥陀さまの願いのなかに生まれた。皆がみな、肌の色だ話す言葉だというようなことにかかわらず、皆がみな南無阿弥陀仏という本願念仏のなかにいのちのご縁をいただいたんだ。そうでしょう、だから初めて「平等」である。滋賀だの京都だの大阪だのというところにある「平等」は絵に描いた餅、あるいは理念、そうであればよいのになぁーという理想でしかない。皆がみな阿弥陀さまの願いのなかに平等にいのちのご縁をいただいた、必ずお念仏もうす身とならせていただきますと産声をあげた。そういうところにしか本当の「平等」ということはない。理念理想をもってそれを求めることは、それはそれでよいことです。けれども、本当の平等ということを知らないままでは、それはかなり困ったことになるのではないかと思います。


これは今ちょっと思いついたから言うだけのことですが、理念理想をいう言葉だけに酔って始められた運動というものがあってすでに五十年がたつけれども、先ほど話したファンヒーターに喩えれば一旦は火がついた、ついたけれども火がついたからもとの理念理想が消えて何かわけのわからんものが燻っているようなことで、運動などというものはだいたいそういうものなんでしょうかね、もうコンセントが抜けてしまっている。だから不完全燃焼の灯油の臭いがたまらない程に臭う。私はそう思います。臭くてたまらない。けれども、何も臭いを感じない方もおられるようで、今年に入って若いご住職さんのお話を聞くことがあって、お寺というのはみんなが集まって悩んだり苦しんだりしていることを言ったり愚痴を言ったり聞いたりして、思うことを話し合う場だとおっしゃる。続いて何をおっしゃるかと思えば、みんなで話し合ってそれで何かが解決するわけではないけれども、お寺とはそういう場所だとおっしゃる。私は違うと思う。断じてお寺はそんなところではありません。お寺というのは、集まった一人ひとりがすでに阿弥陀さまが人間のあらゆる問題、この私のすべての問題に南無阿弥陀仏と解決をしておいて下さることをお聞きして、お念仏もうす身とならせていただくところです。今ここに、この身において法蔵菩薩さまがおはたらき下さっているということをお聞きするのです。仏願の生起の末ということ、つまりこの私、この自分でもどうしようもない一人を何としてもすくわずにはおかないと法蔵菩薩さまが志願倦くことなく勇猛精進にして和顔愛語先意承問して下さっているんだということを頭で理解するんでなくこの身で分からせていただく。お寺というのはそういうところです。ですから、まぁ何もお寺でなくてもよいんですが、このお寺というのは中国ではもともとの起こりは今で言えばお役所、役場の住民課みたいなものだったそうです。どうも私なんかには臭いが鼻についてかなわん運動は、お寺というものを公民館か何かのお役所のようなものにしてしまっているんでないかと思ったりします。お役所のようなものだから、道理で南無阿弥陀仏ということを言わないですね。