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法蔵菩薩 (5)

ところで、正信偈さんには書かれていない法蔵菩薩さまの菩薩行、仏説無量寿経にはその本願修行が説かれてありまして、そのなかに「和顔愛語にして、意を先にして承問す」というのがあります。この頃の季節になりますといろいろなカレンダーをいただきます。この頃は不景気で、カレンダーをくださるところも減ったのかも知れませんが、そういうカレンダーの中には生活訓のようなものが書かれたものがありまして、和顔愛語という言葉が書かれたりしています。まるで人間ができることのように書かれておりますが、そうでない。そうでしょう、いくら和やかな顔で愛しみの言葉を心がけていても、米びつの底が見えていて、明日食べるお米を買うお金もないようなときに隣の家がお米をわけてくれないかと言ってきたら、どんな顔つきでどんなことを言いますか。まぁ米びつの底が見えているようなところは、だいたいお隣さんもそれをご存じで、お米をわけてくれとは言ってこないんでしょうが、言ってきたら鬼のような顔になって「ない袖は振れんわい」となるんでないでしょうか。和顔愛語先意承問というようなこと、これは人間にできることではないのです。

法蔵菩薩さまは和顔愛語にして先意承問してくださる。先意承問というのは、衆生が何かを言う前に衆生の意(こころ)を知り尽くして、衆生の言うことを聞いて、衆生の意を満たしてくださるということで、法蔵菩薩さまは勇猛精進、志願倦むことがない。いったいこの先意承問ということ、何故そんなことができるのか。こんなふうなことは何故と問うようなことでもなかろうかとは思いますが、何故そんなことができるのか。それは法蔵菩薩さまという方が衆生というもの、我々一人ひとり、この私となっていてくださるから、この私が何かを言うまでに私の意というものを知り尽くしてくださる。衆生というもの、この私というものは何も分からないもので、何が分かっていて何が分からないかがそもそも分かっていない。何かひとつ分かったような気になって、それをもってだいたい世間というものはこうだ、人間というのはこんなようなものだなどと言うけれども、実はそもそも何一つ分かっていない。仏法というものを勉強するような人は時々私は悪人でございますと殊勝なことを言うけれども、殊勝なことを言っているその私というものが何者かが分かっていない。だいたいこの頃は自分自身の本当の姿に気づきなさいなどというこを言う人がいるけれども、自分自身の本当の姿に気づいたとして、その自分が自分をすくうとでもいうのかと、私などはそんなことを思わずにはおれないのですが、法蔵菩薩さまという方は私の知らないうちに私となっていてくださって、私というものを知り尽くして、私が何一つ分かっていないことも、驕慢であって邪見しかもたないものだと見通していてくださる。しかも和顔愛語にして先意承問してくださるということは、一切の衆生がすくわれる法というもの、まさしくこの私がその法によってすくわれる法というものを成就しておいてくださるから和顔にして愛語ができる。衆生の意を知って、さてこれから法を見つけようというのでない。あらゆる衆生がすくわれる法を成就して、その法を以てこの私となっていてくださる、それが法蔵菩薩さまという方であるのです。