表紙

     

resources

rss1  rss2  atom03

法蔵菩薩 (4)

法蔵菩薩さまは今ここにおはたらき下さっている。しかも「聞其名号」の「聞」を「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし」、それを聞というのだと親鸞聖人はおっしゃっているのですから、お名号に仏願の生起・本末をお聞きするということであって、法蔵菩薩さまはそのお名号となって今ここにおはたらき下さっている。その方を如来と申し上げるのだと、私などにはそれで十分でして、因位だ果上の因だというようなことは学問学識のある方におまかせしておけばよいことかと思うわけです。

今日は秋の法要ということですが、こういう法座がありまして、一応終わりとなりますと最後には恩徳讃を唱和しますね。あの恩徳讃に如来大悲の恩徳とありますね。いったい如来の大悲とは何をさして親鸞聖人は言っておられるのか。そもそも如来と言っておられるその如来、私どもはどうも漠然と、どこかしら神秘的というか、自分と関係のないもの、もっと言ってしまえばわけのわからないもののように感じているのではないかと思いますが、どうでしょう。この如来と申しますのは、お名号となっておられる法蔵菩薩さまである。毎日お勤めする正信偈さんのなかにお名前のあるあの法蔵菩薩さまが如来であって、この法蔵菩薩さまは名であり号である。お名号と申しますのは、名は因の位にあるお名前で、号はこれは果の位のお名前であって、二つ別々にあるのではなくて因位の名と果位の号でひとつの一体のお名号である。お名号であって、たとえば重誓名声聞十方とおっしゃるところと比較してみれば明らかなように、名声ではない。法蔵菩薩さまはお名号、つまり因と果を併せ持つ如来である。このお名号である如来が因と果を併せ持つところが法蔵菩薩さまの法蔵菩薩さまである所以であって、ここにある因と果とは、これは衆生の往生の因と果である。この衆生往生の因と果、これを仏願の生起の末という。南無阿弥陀仏というお名号に、衆生の往生の因もあれば果もあるわけです。

これをもう少し詳しく言えば、阿弥陀さまが南無なされるところに因がある。善導大師の六字釈によれば、南無というは帰命であり、また発願廻向である。阿弥陀さまが発願ご廻向くださるところに衆生の往生の因がある。阿弥陀さまのご廻向には、衆生は絶対に、絶対にと申しますのは無条件ということ、絶対に無条件に帰命せしめられる。南無阿弥陀仏にある因果は仏の方の因果であるから、因が即ち果となる。無条件に阿弥陀さまに南無帰命せしめられる衆生というもの、これに必ず仏果を得さしめる。これは何故、何によって衆生に仏果というものが得さしめられるかと言えば、これもまた善導大師の六字釈によれば「『阿弥陀仏』と言うは、すなわちこれ、その行なり。」、南無阿弥陀仏の阿弥陀仏を「その行なり」とおっしゃる、その行が即ち今ここにおはたらき下さる法蔵菩薩さまであって、その法蔵菩薩さまのおはたらきによって一切の衆生というもの、必ず仏果を得さしめられる。だから、南無阿弥陀仏というお名号に、衆生の往生の因もあれば果もあるのです。