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法蔵菩薩 (1)

『経』に「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。これは『教行信証』の信巻にある言葉です。お釈迦さまがご自身の身に於いて阿弥陀さまのご本願成就を確認なされた、それを仏説無量寿経下巻の始めに説いておかれまして、それを「本願成就文」と言っております。

「本願成就文」については今日は何もお話しませんが、親鸞聖人はその「本願成就文」の「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の「聞」ということについて「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを『聞』曰うなり。」と、こうおっしゃっていまして、「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。」とおっしゃるその「仏願の生起・本末」とは何であるのか、どういうことであるのか。まずそういうことからお話しようと思うのですが、この仏願の生起・本末ということにはいろいろの解釈があるようです。いろいろの解釈があるなかで、これは仏願の生起の本と仏願の生起の末であると解釈なさる方のお話をもとに、仏願の生起・本末ということについては、私はいわば受け売りをさせていただく次第です。

仏願の生起・本末とは仏願の生起の本と仏願の生起の末である。そうは申しましてももとより仏願の生起には本も末もないのでしょう。それをあえて言えば、一応分けて言うならば、ということになるかと思いますが、一応分けて言うならば、仏願の生起の本とは因位の法蔵菩薩さまが果位の阿弥陀さまとなられる、自らお建てになった四十八のご誓願を成就なさって、本願念仏を円成なさって阿弥陀仏となられる、その因果が仏願の生起の本である。また別の言い方をすれば、因位の法蔵菩薩さまが果位の阿弥陀さまとなられる往相が仏願の生起の本であると言うことができるかと思います。