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聞き開く

つい二週間ほど前、喉の奥の方に口内炎らしきものができて、食べ物を飲み下す時はおろか、口にたまった唾を飲み下す時でさえかなりの痛みを感じました。かなりの痛みで、数日の間は唾でさえ「えいっ」と気合いを入れて喉を通していました。

その時に思い当たったのは、これまでにも何度か関係することを書いたことがあるように思うのですが、食事などをいただく前に「いただきます」ということの意味です。

学校の給食の時に先生が「(食材となったものの)命をいただくんだ」とおっしゃるのは、それはそれでいいと思うのですが、真宗の僧侶がそれだけしか言わないとすれば、それは「すこぶる不足言の義といいつべき」ことだと思います。

ひとつの言葉にもさまざまな受けとり方があり、ひとりの人でも時によって受けとり方は違うわけで、それはそういうものだとしておいてよいのでしょうが、お聖教のなかの言葉の受けとり方が人や時によって違うのは、さてどうなのでしょう、それでよいのでしょうか。私には分からないことです。

私に分かる、というか、私が思うのは、お聖教の言葉は、読むのでなく聞くものであるということです。お聖教の言葉を読んだ方の言ったり書いたりしておかれることは正しくても間違っていることが多く、聞いた方の話しておかれることは厳密には正しくないところがあるかも知れないけれども間違ってはいないことが殆どだと思うのです。

正しくなければ間違っている、正しければ間違っていないと思うのが我々の常ですが、必ずしもそうではないと私は思います。それは言葉の綾でこういうことを言うのではありません。実際に正しいけれども間違っている、間違っているけれど正しいということが「お聖教のなかの言葉の受けとり方」にはあるということです。

これは断じて特定の書物を指すのでなく、あくまでもこの文脈の中で言うことですが、お聖教を「読み解く」のであれば、つきつめれば、あくまでもつきつめればそのお聖教の言葉は紙に書いた文字、テキストであって、教えではない。お聖教の言葉を読んだ方の言ったり書いたりしておかれることは正しいかも知れないけれども教えとして生きてこないわけで、その生きていないところを間違っていると感じてしまうのでしょう。

先人の言われる通り「聞き開く」ところに初めてお聖教の言葉が生きた教えとなるわけで、聞き開かれた方のお話しして下さるときには、私などは正邪など知るよしもないままに身体が耳になります。私の血肉となってくださる教えを間違いがないと感じます。(付け加えておきますが、聞き開く手だてとして読み解くということがあるのでしょう。)

・・・喩えと受け取られても仕方ないかとも思うことですが、喩えではなく眠るとき、眼は閉じます。世の中には眼を開けたまま眠る方もあるようですが、閉じようとすれば眼は閉じられます。耳はどうでしょう。

ちなみに、鼻も閉じられませんが、お香などの香りは「聞く」と言いますね。喩えとして言ってみれば、口を開いて、なんなら眼も開けたままボ〜っと眠っているのが私。その私が眠っている間も法蔵菩薩さまは耳や鼻となってはたらいていて下さる。南無阿弥陀仏を私にお聞かせくださっている。

眠るといえば、生きた教えをお聞きしてお念仏にお値遇いするまでの私は眠っていたも同然で、教えに起こされて、ひとつ欠伸するかしないかのうちに教えが血肉となってくださる。教えに生かされてお念仏もうす身とならせていただけば、そこにまた凡夫の慢心が起こって、安心して眠くなって欠伸のひとつもまた出てしまうのかも知れません。