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先意承問

もちろんこれは極論ではあるのですが、「分からないことはありませんか」と言われて、何かを問うことができるなら、聖道の門から道行きをなさればよいわけで、お念仏は要らないのです。要らないというのは、もっと適切な言い方をすべきなのでしょうが、うまく言えないので要らないと言っておきます。

何が分からないかも分からない、何をたずねるべきかも分からない。だから問うことすらできなくて問わないこの一人こそ、問わずとも、あるいは問えざるがゆえに、真実の利をもって恵まれてあります。

うちのお寺の今年の報恩講で、晨朝のご法話の最初に「何かご質問はありますか」と講師の先生がおっしゃったのですが、あれが分からんこれが分からんと問う人はひとりもいませんでした。「質問はありますか」と開口一番におっしゃったということもあるのでしょう。

何が分からないかが分かる人は、お念仏の教え学んでいる中途半端な人ではないかと思います。「お念仏の教えを学んでいる」人は中途半端だという意味です。ここで中途半端と言うのは、「なむ」か「あみだぶつ」かどちらかがない、あるいはどちらもがない「教えのようなもの」にしか出合っていないというような意味です。その「教えのようなもの」も大概のところ学問・教養にとどまっています。

この時のお参りの人のなかには「お念仏の教えを学ぶ」こともないのではないかと思える人もいらっしゃいますし、お念仏の教えを学ぼうとしていると思える人もいらっしゃいます。もちろん、長年、私が生まれる前から聞法してこられた人もいらっしゃって、つまり、お参りの人が皆中途半端ではないなどというのではありません。

概してこのあたりの人の多くは遠慮深いというか、村の常会でも何かを発言なさることも滅多にない人が多く、そういうふうな土地が育てる人柄ということもあるのでしょう。けれども、質問がないことの一番の理由は、一般的にまず思いつくのは、何が分からないのか分かっていないということでしょう。

何かを聞いたり読んだりして、その聞いたり読んだりした内容のここが分からないというなら、一概には中途半端とも言えないとは思いますが、しかし煎じ詰めれば中途半端です。さて、中途半端でなく、何が分からないのか分かっている人がどれだけいらっしゃるでしょう。そもそもそんな人はいらっしゃるのでしょうか。

これももちろん極論ではあるのですが、我々は皆何も分かっていない。何かが分かっていると思っていても本当には分かっていないし、何も分からないのだから、何が分からないのかも分からない。世間道のことなら大いに分かっていると言える人もいらっしゃるのでしょうが、世間道と別に仏道があるわけではありませんから、やはり我々は皆何も分かっていないのでしょう。

「先意承問」という言葉をキーワードにして検索すると、検索結果にはいろいろなサイトが出てくるのですが、仏教に関係するサイトでも「和顔愛語」「先意承問」を人間様のこととしている説明などもあります。大きな間違いだと思います。

「本願に対しては我々は絶対に頭がさがる。何故かというと仏が因位の本願修行に於て衆生の前に頭をさげておいでになる。これはどうしてそういうことを申すかというと、四十八願というが全体それである上に、『大経』の勝行段には仏さまは不可思議兆載永劫の間菩薩の行を修行なされた、そこを読んでみると先意承問勇猛精進志願無倦という。「意を先にして承り問う」。衆生の気の附かぬ時に仏さまの方が先に、何うであろうか斯うであろうかと仏かねて知ろしめし、そうして我等衆生に承問して、お前の心持ちはどうか、お前にはどういう苦しみがあるかというて意を先にして承問される、これが即ち如来因位の大悲という。(曾我先生の『行信の道』「15.願力成就の意義」より引用)

自身のことを「人間様」だと思うともなく思っている「人間様」から「様」がとられ、「人間」という衆生が自分でつくって自分で自分の首を絞めている妄念妄想、迷いが転じられると、実にはわれわれは群生であり、群萠です。如来が世に出興したまう所以は、群萠を拯い恵むに真実の利をもってせんと欲してです。