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10月も4日

10月も4日になりまして、このところ報恩講の準備ではなく、報恩講の準備の下ごしらえをしています。といっても、午前中に1時間、午後また1時間くらいが限度なのですが。

今日は植木屋さんが来てくださって、境内の木を刈ってくださいました。まだ明日も仕事が残っているのかな?とりあえず、刈り落とされた松の葉を拾って、お内仏の仏華の幹に着ける葉を確保しました。

知り合いからいただいた造花の高野マキの葉があって、この数年はそれを使っているのですが、それがどうも納得のいく出来にならないのです。幹が以前から使っている本物の松だからでしょうか。

夜なべ仕事に松の葉を束ねて幹に着けてみて、それでもうまくなかったら幹も作り直そうと思っています。先の台風で折れて川に落ちていた柿の木の枝を拾っておいたのですが、幹に使えそうです。

植木屋さんと少し話したのですが、その方の在所のお寺ではこの柿の木というのを重宝なさっているようです。確かに柿の木は仏華の幹になりそうな枝振りをしています。木にもいろいろ質がありますね。

報恩講の時のお内仏の華を平時とは立て方を変えるようになったのが何年前か忘れましたが、松の幹に葉を着けるようになった初めての年には、金色の紙縒を適当な長さに切って束ねたものを葉に見立てて着けたのを覚えています。

さて幹に着ける段になって、松の葉というのはどういうふうに枝についているのか分からなくて、わざわざ実物を見に行きました。普段もおそらく毎日松の木は見ているのですが、そんなことを気にかけて見てはいません。見ていても見ていない、そういうものですよね。

実物を見てもなかなかその通りにはできないのですが、実物通りに葉を着けられたとしても、それがまた華としてうまく仕上がるとは限りません。ここがおもしろいと思うのです。

・・・「自力の心」を解釈・意訳して「人間を立場とした心」となさっている本がありまして、実際にはもっと言葉を重ねておられるのですが、含蓄あって余りあるように思えました。

我々は、華をたてるときには、華としてうまく仕上がるように華をたてます。華をたてるのと同じようにしていることが他にも多々あるようではないですか、それが人間というものなのでしょう。