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動機

他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。(歎異抄より抄出)

ここのところは、「経釈をよみ学せざるともがら、往生不定のよしのこと。」に対してということなのですが、真宗の教えを実に簡潔に言い表していると思います。私が言い添えるようなことなどないのですが、少し思うところを記録しておこうかと思います。

何を思うかといえば、「本願を信じ」ということと、「念仏もうさば」ということが別のことではないということです。

いわば「仏になる」ための条件として、ひとつには本願を信じるということがあり、二つには念仏もうすということである。そんなことではないということです。

あるいはまた、本願を信じることが第一段階で、次に念仏もうすことがあってこれが第二段階、第一段階を経て第二段階へ進み、そうしいて仏になるのであるというようなことでもないということです。

そういう解釈には、仏になるのが「やがては」「命終わるとき」「命終わった後で」などということが付き物のように付いてくるようですが、これがそういう解釈の不十分さの証左であると思います。

なるほど、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」とあるわけですからそんなふうな解釈になるのも無理はないとは思うのですが、「本願を信じ」と「念仏もうさば」と「仏になる」というのは別のことではないと、本当はそう言いたいのです。

ですが今は、少なくとも「本願を信じ」ということと「念仏もうさば」ということは別のことではないと言うにとどめることにしておいて、「本願を信じ」ということと「念仏もうさば」ということが別のことではないからどうなのかと言えば、いったん聞法と称名を分けて言うことになりますが、聞法なき称名もなければ称名なき聞法もないということになります。

13日18日にあんなふうなことを書いた動機はこれでした。