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廻心

もの(=グチ)を言いたがる私の口から今日出るのは、前回の続きです。しかも、まったく詳しく知りもしないことについて言うのですから無責任この上ないのですが。

唯識と言われる大乗の仏教では、心というものを心(芯)・意・識という3層から成り立つものと考えるようで、前回書いた外から内へという方向というのは、識(感覚器官のはたらき、感覚)から意(思考)へ、さらにはその内層である芯へ向かうということになるのでしょう。

なるほど確かにお念仏は毛穴からしみ込むとも言われますし、自分の口から出て下さって自分の耳に入って下さるとも言われまして、それは識-->意-->心という方向であるのかとも思います。

しかしけれども、如来の本願念仏たるお念仏は念と念との念々相続であって、如来の一念は心に直接にはたらいて下さって、つまり心とひとつとなって下さる。最も内なる心というものは、これを私は意によって一旦は私しているのだけれども、本来は如来のおはたらきの場であって、如来の一念と相続し、呼応する一念の住処である。

阿頼耶識は法蔵菩薩であるとおっしゃった方があるけれども、その方はまた「如来我となる、これ法蔵菩薩の降誕なり」(趣意)ともおっしゃっている。なるほど衆生たる私の衆生たる所以は我執であって、如来の一念が心とひとつとなって下さるということは、衆生たる所以の我執をそのままに、私そのものとなって下さることを言うのであろう。

すくわれないままの私という一人を必ずすくうとはたらいて下さるところが法蔵菩薩さまの降誕であって、それはつまり如来の本願念仏が心に直接おはたらき下さって、如来の一念と相続する一念、呼応する一念が心に生まれて下さるのである。

如来の一念と相続する一念が心に生まれて下さって、図式的には言えないことをあえて図式的に言うなら、それが意にはたらき識にはたらいて下さる。内から外へということは、それは教養でも学問でもないということの証左であって、仏教に私を学ぶなどということでもない。

「仏教に私を学ぶ」ということに「私」はあるのだけれども、やはり一旦は私と言わなければならないものの、如来が私となって下さる(「下さった」と過去形で言うべきか)のであるから、そこに私と言い習わした「私」はない。

真宗では廻心という。これは廻心といい、廻識とも廻意とも言わない。廻心の心は発心の心ではない。それがいつの間にやら廻心の心まで発心の心となってきている。