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内部から

図式的に言えるようなことではないのを承知の上であえて図式的に言えば、如来が我々にはたらきかけて下さるのは、どちらかといえば、外部から内部へではなく、内部からではなかろうか。


そもそも内部だ外部だということも、我々の既定概念として固定しているもののひとつであるわけで、衆生たる私の虚仮の考えをもとに話をすることになるのですが、そういうことが言えるのではないかと思います。

「仏教に私を学ぶ」ということと「私が仏教を学ぶ」ということには根本的な違いがあるわけですが、「仏教に私を学ぶ」のが浄土門のあり方であるといわれて、そのことには一応は頷けるわけです。

一応は頷けても、「私の本当の姿が明らかになった」ところで、ではその極重の悪人である私を、私がどうにかできるものではなく、また、私を極重の悪人であると観るのもまた私であるという問題は解決されないままです。

「仏教に私を学ぶ」ということに一応は頷いて、しかし、「私の本当の姿が明らかになった」といっても、それは依然として私の本当の姿を明らかにさせなかったものごとの上にであることを思えば、「仏教に私を学ぶ」のは、少なくともそれだけでは仏教ではないといえるのではないでしょうか。

いかに仏教に私を学んだところですくわれないままの私であるわけで、ですから「仏教に私を学ぶ」ということは仏の教えではない、少なくとも教えそのものではないということです。

仏教に私を学んで私の本当の姿が明らかになるというのは、如来のおはたらきを外部から内部へという方向でとらえている、如来はまったく私の外の私とは別の世界にましまして、そこから私にはたらきかけて下さるとしているような気がします。

最近は、何かしら教養のようなものの域を出ないことばかりです。耳に心地よい、口にも心地よいのかも知れませんが、仏の教えでもご開山のご教示でもないと、そんな気がします。

私も一応所属する「団体」さんがすばらしい理念をもって始められた「運動」が生まれたときにはすでに始まっていたという方の多くが、飲みもしないお酒に酔って踊っておられるような気がします。