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機法一体願行満足

『歎異抄』にも「親鸞におきては、ただ念仏して」とか、「親鸞は、父母孝養のためとて」とか、或は「親鸞もこの不審ありつるに」など、これは兎に角日本の文章としては特別な文法であることと聞いているのであります。われはと代名詞でいわないで実名を掲げるということ、我が国では貴人の前には必ず実名を自ら実名を名乗って申し上げる。そこには非常に謙虚なる深い自覚が現れているのであります。そこに大きな仏の本願を一人にお引受けするということは、即ち無為自然に一切衆生の罪の責任を自分一人に引受けるということになる道理であります。だから機の深信というものは、仏の十方衆生救済の本願を自分一人にお引受けする、そこには一切衆生の罪を自分一人に引受けるという力が自然と湧くかと思います。茲に本願相応の意義があり、正に法蔵菩薩の体験であります。一心一向とは、一心とは全心であり、一向は全身である。身心を挙げて南無阿弥陀仏と念ずる時、天地万物は同時に感応して南無阿弥陀仏を顕現するのでないかと思います。だから爰愚禿釋親鸞という時には、確り御自分を見つめて居られる。そこに全身南無阿弥陀仏になっている。但なる阿弥陀仏でなく、機法一体願行満足の南無阿弥陀仏であります。
(曾我先生「行信之道」より)

何も付け加えることなどないのですが、「法蔵菩薩の体験」という言葉があり、また「(天地万物は同時に感応して)南無阿弥陀仏を顕現する」という言葉があります。よくよく味わいたいというようなことでなく、なるほどそうである(った)のかという思いがします。