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「仏の御心」

単なる自分自身だけを思えば、自分の理知で如何程考えてみても、結局そらごと・たわごとに過ぎないのでありますが、一切の妄念が尽きて、一度南無阿弥陀仏を念ずる時に、久遠の確実なる一道を新しく認識するのである。思えば我等はこの一道を久しい間背にして、事実叛いて今日まで来ている。而も夢幻の裡に叛いていたとしても、深く自ら悔責して一念発起する時に、唯一瞬間の光が千歳の闇室を照し、光は瞬間であるけれども千年の闇は忽ちに滅し、茲に主客転換して闇は一瞬時の客となり、光は千歳の光室の主となる。そこに真実の行信を獲るという意義が成立する。思えば自力我慢の衆生は仏の五劫思惟の本願、永劫修行の御辛労というものをば背後にして叛いて来たけれども、不思議にも仏の御心を背に擔うて来ている。洵に背にするということは擔うているということになりましょう。
(曾我先生「行信之道」より)

何も付け加えたりすることはないのですが、あえて蛇足を。

「仏の御心を背に擔うて来ている」とあります。こういうことを思うと、よく耳にし目にする「気づく」「自覚する」ということが的をはずれたことに気づき、的のはずれたことを自覚するという意味になるように思います。

自分自身の有り様に気づく・自覚するというようなことは「自分の理知で如何程考えてみても、結局そらごと・たわごとに過ぎないのであります」。それもまた千歳の闇室の中でのことなのです。

「仏の御心を背に擔うて来ている」とは、それが本能であるということでしょう。になっている「仏の御心」こそが私たちの気づくべきことであり、「仏の御心」をになっていることこそ、自覚すべきことなのです。