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本能の純粋感情

だから「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」というのは、有難く宿業宿縁を喜んで居られるのである。久遠の昔の五劫思惟の本願というものは、今日の親鸞一人が為であったと、自分一人に引受けて下さるということは、それが偶然の感想でなく「聖人のつねのおほせ」という限り、本当に助かるまじきいたづらものだということを五劫思惟の発願の時已に之を深く念じて、無為自然に一切衆生の罪を引受ける如来の大悲を体験するのである。同時に仏の御苦労は自分一人の為であった、それ程に自分は仏に反逆をしていたことであった。してみれば仏法の永い御苦労の歴史というものは、われ一人が為に御苦労下さったということは、その特別の意義は、久遠劫より私は仏に敵対して来たのであるという、本願に対する再認識である。誠に難思の弘誓こそは、そうせずには居れない如来の無縁の大悲、一如法界より形を現し名を示し、本願を発して下さったのでありましょう。即ち本能の一如の中から出て来たのでありましょう。仏の智慧というものは理知的なる論理ではなくして、本能の純粋感情であります。しかしながらそれを私共が戴く時になるというと、自らそこに限りのない深い自然の道理、必然の真理というものを具現し来るのでありましょう。仏の本願の名号の中に無上甚深の功徳利益というものがある。仏願の生起本末が自分一人の為であるということを感ぜずには居れぬのであります。
(曾我先生「行信之道」より昨日の続きの部分)

何も付け加えたりすることはありません。