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背後に本願あり

仏法では一般に直接なる因よりも間接に見ゆる縁に重きを置いています。人間の思う如き決定的なる因というものが単独に在るのではないのであります。因の背後には一切万物が縁として連続している。この広大無辺の縁に目覚めた感激が信であります。信の背後には名号あり、名号の背後には光明あり、光明の背後に本願ありで、今信心正因といえばとて別に信心というものがあるのではなく、弘誓の強縁に帰する所に信心の正因ということが成就するのである。だから信心正因といえば、如何にも因を以て縁を奪うように見えますが、実は縁を全うじて因を生成する所以なるを開顕するのであります。だから信心正因というからとて、特別なる信念、即ち所信の理念や能行の意志を固執して、与えられたる所行の法を亡失する時、念仏成仏の願力自然の道に背き、所謂一益法門の神秘主義の邪義に陥るのであります。光明・名号の外縁の中に新たに信心の正因を見出したのですから、段々といってみれば、光明を以て母とし、名号を以て父とし、信心を以て自己の業識として、内外因縁和合次第して願力自然の大道を成立し、外なる迷いに対しては如何にも横超の直道であるけれども、内的には昇道無窮極で遠く深いのであります。本当に光明・名号の本願の因縁というものを、自分一人の為であると眼を開かして戴いた所が信心であります。眼を開かして下さるものが光明・名号の本願の因縁である。南無阿弥陀仏をたのむ念仏現行以外に、別に信心という自我的実体があるというならば、それは自力の信であって大いなる過りである、と仰せられるのであります。
(曾我先生「行信之道」より)

これは数日前に書いたように思いますが、因や縁というものがつくれるものだと思っている人があって、あるいはそう思う人のおっしゃる因や縁というものは、「因の背後には一切万物が縁として連続している。この広大無辺の縁に目覚めた感激が信であります。信の背後には名号あり、名号の背後には光明あり、光明の背後に本願あり」と曾我先生のおっしゃる因・縁とはまったく意味の異なるものなのでしょう。