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合理(的)

結局物事は法の自然に本づき、人間の理知の好むと好まざるとに関係なく、その結果は成るべきようにしか成らぬのであります。私共は順逆の私情を超えて与えられたる境遇に対して、公正厳粛の態度を以て対応し、平等に忍従し、信頼し、供敬し、奉持し、満足し、感謝し、与えられたる偶然の事物の裡に深く帰入して、内的なる必然の意義を発見すべきであります。偶然は我等人間の理知が否定せられ、その無効を宣告する限界の感覚であると同時に、更に一如の本願力の不虚作住持の内的必然の招喚の純粋感情を表示するものであります。偶然を以て単なる感覚とすれば、所謂唯物的運命論に陥るであろう。しかしながら仏教に於ける偶然は内的必然に裏付けられたる外的偶然であって、誠に内外一如なるものであり、必然に証入するの契機であります。
(曾我先生「行信之道」より)

こういうところは、読む人というか、読み方というか、人の読み方によっては大きな誤解をまねく可能性もあるところかと思います。

「偶然は我等人間の理知が否定せられ、その無効を宣告する限界の感覚」であって、同時に、「一如の本願力の不虚作住持の内的必然の招喚の純粋感情を表示する」ものであるということ。

何事にも転倒を常とする我々には、理知を否定する偶然は往々にして運命論者となるきっかけになったのでしょうが、昨今は運命論というものにもあまりお目にかかりません。私だけかも知れませんが、では、その理由は何なのでしょう。

「合理(的)」という言葉があって、これはよくお目にかかりますし、よく耳にもするのですが、我々が言う合理の理とは、さて、どういう「理(ことわり)」なのでしょう。

私などは、昨今特に合理的であると言われることほど不合理であると思うことが多くなっています。