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行信の迷惑

遠く本願・光明の宿縁に催されて、茲に千歳の闇室が照破せられ、深き捨穢欣浄の願心に目醒め来るというと、我々は茲に新たに行と信という実践の問題に当面して来る。そこに初めて迷行惑信という迷悶の路が始る。何を行ずべきか、如何にして信を立つべきか。かくして徒に雑行雑修に迷い定散の自心に惑うて、真実の一如の行と無二の信とを得ることが出来ぬ。捨穢欣浄の願心痛烈になればなる程、行信の迷惑が愈々深いのであります。

(中略)

「自性唯心に沈んで浄土の真証を貶す」るは虚仮の証に沈溺するのであり、「定散の自心に迷うて金剛の真信に昏き」は雑毒の信に迷惑するのであります。だから「穢を捨て浄を欣ふ」ということは特に浄土門の宗とする所でありますけれども、しかし総じて仏教の旗幟とする所であります。これを突き詰めて来れば、そこに仏教の真宗が明らかになって来るのでありましょう。かくて我等は捨穢欣浄して仏法に帰しつつも、邪雑の行に迷い定散自力の信に惑うているのが多いのであります。初から捨穢欣浄しない人には行信の問題はないのであり、真摯に捨穢欣浄する人にして始めて道の問題が起って来る。「行に迷い信に惑う」新たなる問題が起って来るのであります。
(曾我先生「行信之道」より)

(付け加えることは何もありません。)