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教法の大地

我々は易行といえば但称え易いことと早合点しているが、南無阿弥陀仏というは称え易いこと、六字を口でいうのはこの位のこと何の造作もないと、何でもないように思い、知らず識らずの間に法を軽しめるような気持でいうているのでありますが、造作がないという言葉の意は我々の自力の極った所、願力自然に随順するによって自然に無為自然に相応する所が易行・易往ということでありまして、願力自然の故に易行であり、無為自然の故に易往であると思います。

(中略)

造作がないということは、長い期間の悪習によって本来の正しい道を行ずることの反対をやることが、普通に却って何の造作がないように思われます。しかし今や迷の夢醒めて易行の大道に立つ。これは遠くは浄土の真宗なる弘誓の強縁により、近くは大行・大信の正業・正因の回向により、外にしては宿悪を転じて宿善を成就せしめ、内にしては自我の疑迷を除去して一如の真証を証得せしめ給うからである。誠に「大聖一代の教、この徳海に如くはなし」、この功徳寶海の行信に及ぶものはない。天親菩薩の『願生偈』の功徳大寶海、即ち因円果満の一如の行体たる南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏即是其行と帰命の一念に我等衆生をして速疾に功徳の大寶海を満足せしめ下さるのであります。これこそ大聖一代の教法の大地であり、核心であり、本流である。
(曾我先生「行信之道」より)

付け加えることは何もありません。感想のようなようなことを少しだけ記録に残します。

「大聖一代の教、この徳海に如くはなし」とここにある「総序」の一節は、よくよく考えてみればかなり思い切ったことをおっしゃってあるわけです。仏教とは「因円果満の一如の行体たる南無阿弥陀仏」であるというだけでなく、「この徳海に如くなし」とあるわけです。

教学研究所の「正信念仏偈」などには、法然上人の選択本願念仏集をもって浄土教の独立などと書かれていますが、「大聖一代の教、この徳海に如くなし」とは単に独立などということではありません。