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絶対帰命の信

誠に本願力によるが故に、能行なくして所行の事が無為に成就すと示すが、行信の大義である。かくの如くしてこの純粋現行なる所行の称名の法に就て、始めて大信は一切の作為的能行的祈願心ではなく、又所信の境界的なる所謂自我の概念的心境とか、自我的信念即ち自信力とか、律法的信条とかいうべき不純雑駁なる定散自力の域を超脱して、純一無雑の無二無礙の能信の信たるを得るのであります。能信の信とは所信の定心や能行の散心の自力信に対する本願回向の信の独自の義でります。即ち行に於ける能が定散自力の妄執を示すに対して、信に於ける能こそは絶対帰命の信のみが我等衆生に与えられたる本能であり唯一の権能であることを自証せしめ、之によって無限なる大行の内面的眼界を顕示して、衆生をして名号を念持するの契機を成立せしむるのであります。誠に我等に於て信のみが能なることを示すことによりて行が全く所なるを顕し、行の全く所なるに於て如来の大行力を反顕すると共に、信の能なるに於て衆生の自力無効を反顕するのであります。
(曾我先生「行信之道」より)

「信に於ける能こそは絶対帰命の信のみが我等衆生に与えられたる本能であり唯一の権能であることを自証せしめ」るとあります。たとえばご開山のおっしゃる自然法爾ということは、こういう言葉が理解の助けになるのではないかと思います。

また、曾我先生は歎異抄にある「宿業」を本能であるとおっしゃっているのですが、ここで使われる本能という言葉の意味が、「宿業」を本能とおっしゃることを理解する助けになるのではないかと思います。