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理念化、律法化

全体、我々の常識に随えば、何処までも信・行の次第でありまして、かかる信は信仰とか信念とかいわれ、寧ろ所信の境界を顕す語であり、行こそ行為とか行業とか作為とかの意義であって、寧ろ我等如何に為すべきかという能行を顕すものであります。茲に信が理念化し、行が律法化する所以であります。今之に対して所行の法に対する能行の信なく、能信の信に対する所信の行なきことを顕して、所行の法を全うじて我等をして能信の信を成就せしめ、この能信の信を全うじて所行の法に帰入せしむるのであります。
(曾我先生「行信之道」より)

「何処までも」と仰るのがどこまでなのか、「能信の信を全うじて所行の法に帰入せしむる」ということは一応は分かるのですが、我々はやはり「常識」に随っているのであり、逆に、所行の法に帰入せしめられることを何かしら神秘的なことにしてしまっているようなところがあるのではないかと思います。

実際のところ「信が理念化し、行が律法化」した仏教の歴史があるわけで、それこそが仏教であるとされている現実もあるわけです。そういうところに原因があるのではないかと思われるいくつかのことを考えるとき、極端にいえば、浄土の真宗という教えは、一旦は、まったく個人に留め置かれるべきでないかと思えます。

そうでなければ自ら好んで神秘主義に陥り、あるいは看板だけが真宗で中身は通俗習慣ばかりになるのではないでしょうか。「何処までも」が他力廻向を超えるなどということはないのですが、人間の都合は勝手な解釈で超えさせてしまうかも知れません。