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念仏、称名

真実教に於ける大行が唱題の如く唱名と云わずして称名と呼ばれ、又それが念仏と云わるる所以のものは、源、如来の第十七・第十八の本願に由来する所であります。即ち念仏の念は本より憶念の義であって憶持、念持、摂持、執持、摂取、不忘不捨の意であります。又称名の称は称揚、称讃、称嘆、咨嗟、称量、称計の意であります。即ち念仏は如来の本願を名号に就て憶念執持して不忘不失なる意味であり、称名は如来正覚の光明の果徳を名号に就て称讃し称計するの意味であります。即ち因にありては念仏というべく、果にありては称名というべきであります。故に正しく如来の因位の願心を開顕する所の第十八願には衆生の念仏を往生の正業・正因と誓い、果上の正覚の大行開明する所の第十七願には諸仏の称名を誓い給うのであって、念と称とは固より南無阿弥陀仏に於て一体でありますけれども、因位の本願と果上の光明とその義を異にするものであります。
(曾我先生「行信之道」より)

何も付け加えるようなことはありません。

ここで仰ってあることに関して思いますのは、我々に因を作る能力があり、因を作って予定の果を得ようとすることの愚かさであり、因だけでなく、縁ということについても我々にそれを作る能力などないということです。

これは明らかに知るべきであると思います。因・縁ともに我々はただ賜るのであって、因を成し、あるいは縁を作るということは果(仏の)から因をうかがうところに菩薩の業としてあったことである。

そもそも、そうでなければ本願念仏などということはもとよりないものである。これにつけて思いますに、あるいは本願念仏ということ、念仏、称名ということをないものにする、少なくともその意義というものをないものにする衆生がまさに「因縁をつけた」ものが、このごろ大手をふるっているのでないか。

もっとも、この頃に限ったことではないのでしょう。