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「仕事」

凡夫ということに本当に徹底した人が、真の聖者と称せられるのであります。それをば権化仁というのであります。だから祖聖は浄土からおいでになった、ただびとではない。ただびととはどんなことか、凡夫のことです。我々の凡夫というのは自己弁護の為の凡夫だから、天狗のようになったものをいう。そういうものが俗にただびとといわれるものです。その鼻の折れた人が、それが本当のただびと、凡夫であります。だから愚禿親鸞がつまり親鸞聖人と称せらるるのであります。愚禿と仰せられるから聖人というのは間違うている、愚禿といえばいいのじゃというかも知れませんが、自ら愚禿と謙下するお方に此方は頭があがらんのです。崇めざるを得ないわけでありましょう。それこそ権化仁という。
(曾我先生「行信之道」より)

「我々の凡夫というのは自己弁護の為の凡夫だから、天狗のようになったものをいう。そういうものが俗にただびとといわれるものです。」と仰るのをみてそれ見たことかと思っているこの私もまた「天狗のようになったもの」であります。

・・・こういう文脈の文章をどれほど目にすることでしょう。「私もまた〜」「〜が問われている」とさえ言っておればよいかのような文章は、そういうものを私も書くのですが、いわゆる「よそ行き」で、本音ともうしますか、本当のところを隠している。

隠さなければならないほどに本当のところは醜いのでありまして、さらけ出そうにも、さらけ出すところにすでに自己弁護がまじわってしまうのです。それが凡夫の本当のところだと思います。

坊主が人間をやっているのでなく、人間が坊主をしているというようなことを言う人がいますが、たとえばこれなどは「坊主」という言葉に何を既定のこととしているのでしょう。

真宗の坊主がお念仏もうすのは、もはや「仕事」でしかないのではないか。そんなことを思ったりしてしまいます。