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善男子・善女人

真実清浄純粋の絶対善というのは、唯お念仏より外にないのである。本当に悪人がお念仏を戴く所に、始めて善男子・善女人といわれる。善男子・善女人とは、親さまの方から善男子・善女人と呼んで下さるのである。此方の方からいうのではないのであります。この頃では一般に素朴な無教育な人間を卑めて善男子・善女人というて居りますが、そうではないのでありましょう。仏さまが善男子・善女人と云って下さる、それは一面に本来凡夫であるということを示して下さるのであります。茲に実業の凡夫とは宿業に悩む所の実の凡夫ということであります。実業の凡夫ということは重ね言葉であって、実業といえば凡夫に定っていることでありますが、実業に非ざる凡夫というものはなく、亦凡夫に非ざる実業というものもないのでありましょうが、善導大師は二つ重ねて仰しゃったものであります。これは已に申し上げたのでありまして、この仏法というものを正受し感動するものが実業の凡夫である。実業の凡夫であるからして法が正受せられるのであります。
(曾我先生「行信之道」より)

『観無量寿経』にでてくる韋提希夫人を大権の聖者とみるのか、あるいは実業の凡夫とみるのかということについてお話ししておられるところで、付け加えることはありません。

ただ、「この頃では一般に素朴な無教育な人間を卑めて善男子・善女人というて居りますが、そうではないのでありましょう。」と仰ってあって、おもしろいことだと思います。

最近に当てはめるなら「おりこうさん」が「素朴な無教育な人間」を「善男子・善女人」と言っていそうなものですが、どうもそうでもないようです。この頃では一般には誰も誰かのことを「善男子・善女人」とは言っていないようです。

それだけならまだよいのかも知れません。「善男子・善女人とは、親さまの方から善男子・善女人と呼んで下さるのである。」とあるように本当にお念仏を戴く所に、親さまの方から善男子・善女人と呼んで下さるということもないような気がします。

反比例して、「此方の方からいうのではない」ということを知識として知っている人は多くなっているのでしょうね。