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一生涯

無礙光明破無明闇恵日と、信心の眼を開かしてもらう、これは現在の一念に信心の智慧の眼を与えて下さる、そうして現生不退に住するのである。この一念の信は常に現行しているのである。信の初一念というと過去に済んだように思いますがそうではなく、常に現在に一念の信に裏附けられて、我等の信の相続の行というものがある。信前信後などということを考える、前と後というのは信と行との間、前後の間にどうしても隙があります。信の前念と相続の後念と固定しているならば、その中に何か隙があるのじゃないでしょうか。実はそうではないのでありまして、自力の信は何処までも唯信たるに過ぎませんぬが、如来回向の真信というものは恒に相続現在している行である。それは念仏本願の回向の信心なるが故に自然に所行の法を具して能信を成ずる。故に信は信の位としては純粋に疑蓋無雑の能信であって、能行でも所信でもなく、随ってその意義に於て現在性なしというべきである。唯夫れ所具の行に就て能具の信を現在と名くるのであります。之は行・信の義位を明らかにするものであって、具体的には念仏の信心こそは常に念仏の行に於て憶念不断であり、一生を貫通して現在一念である。
(曾我先生「行信之道」より)

先日、ご門徒のじいちゃんがお浄土にお還りになりました。享年94歳、ほぼ100年の間の一生涯でした。この一生涯というものの長さは、我々の側のと申しますか、我々の頭が考えるならば人によってそれぞれに違いがある。

産声をあげて間もなく終わる一生涯もあれば100年を超す一生涯もあるということになりますが、あくまでもその長さのそれぞれの違いというものは我々の側にある。

「念仏の信心こそは常に念仏の行に於て憶念不断であり、一生を貫通して現在一念である」というようなことを思いますとき、やはり凡夫の世界ともうしますか、我々の業のすべてが転倒を免れないという思いがします。