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「説明」

「いたりてかたきは石なり、いたりてやはらかなるは水なり、水よく石をうがつ」ということがあります。難度海は石である。、難思弘誓は水である。自己否定の力が自然に一切を否定せずんばおかぬのであります。不可思議兆載永劫に於て法蔵菩薩は乃至一念一刹那も御自身を限りなく否定せられたのであります。その力が遂に能く一切衆生をして自力無効を知らしめ、本当に難度海というものはつまり我々の我慢我情の角を折って下さる。我慢我情の角ある為に我々は自ら苦しんでいる、その角を折って下さる所に我々は救われるのであります。
(曾我先生「行信之道」より)

全くということはないにしろ、同じことを言われても言う人によっては、聞くこちらがすんなりと聞けたり、かえって反感を覚えることもあります。

全くということはないのですが、同じことを言うにしても、分かりやすく言えることと、分かりやすく言おうとするとかえって分かりにくくなり、いわゆる仏教語をそのままに言う方がよいこともあります。

聞くということ、話すということ、どちらも「仏願の生起本末」についてになるのでしょうが、「疑心あることなし」ということは、これは我々の側にその能力があることではないのでしょう。

耳で聞き口で話すときには「説明」を聞き「説明」を話すに過ぎず、説明だけでよしとするのなら、今の風潮はそうなのではないかと思えるのですが、お念仏もうすということは用のないことです。

実は逆で、お念仏もうすことにしか「用」はないのです。