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本願の宗教

本願の宗教は、実践の方面よりは行信道と名け、従来の信行道と区別せらるべきものである。蓋し信行道に在っては先ず信を以て所信の理想として自我を先想し、次でこの所信の心境を実現し、人生を創造せんが為に能行するのである。かくて信行道に在っては所信・能行の次第である。而も所信の要は能行に帰するを以て、信行道は略して行道と呼ばるる所以である。

然るに行信道に在っては、行は是れ所行の法、信は是れ能信の機と解釈せられ、仏祖伝統の法爾自然の所行の名号に就て新たに疑蓋無雑の能信の信楽を樹立する道である。教・行・証の三法に於て正しく所信と名くべきは教である。その教の本体なる名号は単なる彼岸的所信ではなく、本願力回向の此岸の大行の故に本願の名号は即ち称名念仏であり、阿修羅の琴の皷者なくして而も音曲業道自然なるが如く、如来の名号は本願力の故に能称の実者なしと雖も称名憶念は自然である。随って仏祖伝燈の称名念仏が直に純粋現行としての所行の義を成じ、それ以上に形而上学的神秘的独我論なる心霊を理念せざる所に、本願力回向の真宗なる行信道の特性が在り、茲に所行の体を全うじて而もそれを超えて深く如来の願心を開顕する所の、純一無雑の能信を生成する所以が在る。而してそれが亦唯信道と称せらるる所以も茲に存する。
(曾我先生「行信之道」の序文より)

「行信之道」を少しばかり読み返してみて、序文からいきなりこれほどの大事が述べられていたのかと驚きました。

ここにも何度も書きましたが、教行信証の総序を一部を除いて「聖句」としたのなら、やはり「三帰依文」などよりこちらを用いるべきではないかと思います。難しいということではどちらも難しいわけですが、難しさの質は違います。